文書名
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東日流記
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文書名(カナ)
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ツガル キ
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文書名(ローマ字)
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Tsugaru ki
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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高屋豊前
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差出・作成者(カナ)
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タカヤ ブゼン
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差出・作成者(ローマ字)
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Takaya Buzen
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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作成年終
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数量
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1冊(55丁)
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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24.5cm
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寸法(横)
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17cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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津軽 為信 津軽 信義
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関連する人物・団体(カナ)
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ツガル タメノブ ツガル ノブヨシ
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関連する人物・団体(ローマ字)
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Tsugaru Tamenobu Tsugaru Nobuyoshi
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内容年
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内容年終
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内容
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寛文4年(1664)命によって書いたもの 津軽為信の誕生より寛永10年(1633)津軽信義入部に終わる
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内容(カナ)
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カンブン ヨネン センロッピャクロクジュウヨン メイ ニ ヨッテ カイタ モノ ツガル タメノブ ノ タンジョウ ヨリ カンエイ ジュウネン センロッピャクサンジュウサン ツガル ノブヨシ ニュウブ ニ オワル
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内容(ローマ字)
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Kanbun yonen senroppyakurokujuyon mei ni yotte kaita mono Tsugaru Tamenobu no tanjo yori kan'ei junen senroppyakusanjusan Tsugaru Nobuyoshi nyubu ni owaru
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解題・説明
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近世大名としての津軽家は、歴史的には南部氏の一族から自立して津軽の地を切り取り、豊臣政権に領主権を認められて成立する。このため、自らの正統性を系譜上からも主張する必要があった。津軽氏の系譜ののちに天文19年(1551)の津軽為信の誕生より慶長12年(1607)12月の死去までが記される。ついで2代藩主をめぐる家中騒動から信枚の襲封さらに寛永10年(1633)3代津軽信義の入部に終わる。ただし、為信死去以降は「東日流記後録」としている。為信に関しては津軽地方をその支配下に置く南部氏勢力との角逐と豊臣政権への臣従、二代藩主信枚についてはとくに冬・夏の大坂の陣などの徳川氏への奉公と天海への帰依、そのことによる家康の養女満天姫との婚姻や川中島転封の中止など、大名領主権が豊臣・徳川という中央権力との関わりから正統化される。寛文4年(1664)、家臣高屋豊前清永に、同家伝来の史料を基に編纂して差し出すよう命じたとされ、このため「高屋家記」とも呼ばれる。享保12年(1727)に編纂された「津軽一統志」と比較することで、津軽氏の大名領主としての自己正統化の論理の歴史的な展開と変遷を追うことができる。(浪川健治)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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弘前図書館
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史2-114
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管理記号
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GK214-7
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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資料分類(大分類)
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岩見文庫
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資料分類(中分類)
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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manifest.jsonへのURL
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参照データ
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関連ページURL
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関連画像URL
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自治体史掲載
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東日流記(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第3章第四節)
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出版物・関連資料
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翻訳元の言語
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権利関係・利用条件
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原資料の利用条件
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権利関係・利用条件に関する注記
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緯度・経度・高度に関する注記
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DOI
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既刊目録名
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デジタル化の経緯に関する注記
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