文書名
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弘前藩庁日記(国日記)
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文書名(カナ)
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ヒロサキ ハンチョウ ニッキ クニ ニッキ
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文書名(ローマ字)
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Hirosaki hancho nikki kuni nikki
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別名
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享保12年10月24日条
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別名(カナ)
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キョウホウ ジュウニネン ジュウガツ ニジュウヨッカ ジョウ
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別名(ローマ字)
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Kyoho juninen jugatsu nijuyokka jo
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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御日記方編
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差出・作成者(カナ)
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オニッキ カタ
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差出・作成者(ローマ字)
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Onikki kata
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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享保12年(1727)10月
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作成年終
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数量
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1冊
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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30cm
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寸法(横)
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22.5cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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1727
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内容年終
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内容
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内容(カナ)
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内容(ローマ字)
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解題・説明
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市立弘前図書館に所蔵されている、弘前藩の公式藩政記録「弘前藩庁日記」(文献によっては「弘前藩日記」とも)には、国許における行政・司法・人事をはじめとする政務全般の動向を記した弘前城中での記録である「御国日記」(「国日記」とも)と、江戸における幕藩間交渉、藩主の交際、江戸留守居役の交渉、藩邸内のできごと、国許との連絡事項などを記した江戸屋敷(上屋敷)の記録である「江戸日記」の2種類がある。前者は寛文元年(1661)6月3日の4代藩主津軽信政の初入部の日から記録が開始され、元治元年(1864)年12月までの間、約3300冊が残されている。後者は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。記載期間は寛文8年(1668)5月11日の信政江戸到着に始まり、慶応4年(1868)2月晦日(30日)まで約1200冊が残されている。なお、「弘前藩庁日記」には写しや破本をどのように数えるかで文献によって冊数に差異がある。福井敏隆氏(弘前市文化財審議委員会委員長)によれば、冊数は「国日記」3308冊、「江戸日記」1226冊であるという。なお、江戸日記は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。 「弘前藩庁日記」には、藩政執行の上で先例を参照するためという目的があった(「日記役勤方之定」『新編弘前市史』資料編近世1、787号史料)。つまり、藩政執行上必要な行政文書として保管され、実用されていたのである。「御国日記」は、藩の各部署で作成されていた記録の記事が集大成されたものであり(「御国日記」天保3年6月28日条)、また「江戸日記」も同様に江戸における諸種の留書を整理したもので、したがって、史料としては二次史料として位置づけられる。 「御国日記」の記載内容は、月初めに、その月の月番である家老・用人・大目付・寺社奉行・郡奉行・町奉行・勘定奉行・物頭・青森在番の人名が列記される。日々の記事は、月日と天候が記されたあと、その日登城した家老・用人・大目付の人名が列記され、次に祭祀・仏事・行事や藩主の公的行事についての記事が記される。以下は順不同で、藩士の任免・役替え・家禄増減・家督・改名・縁組などの武士身分に関わる事項、武士のみならず町人・百姓身分にまで及ぶ賞罰記事、各方面の申し出・届け出・願い出とそれに対する対応、そして江戸からの飛脚の到着と、その飛脚がもたらした書状の内容などが記され、最後にその日の御城当番の人名が記されて終わる。「江戸日記」は、月初めに月番家老と用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、以下本文の形式は「国日記」同様である。 藩政組織には、日記記録の専門部署として、「御日記方(おにっきかた)」が設けられていた。延宝3年(1675)に定められた前出の「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録することが定められていたが、時代が下がり、行政組織で取り扱う事項が膨大となり、また御日記方でも藩庁日記以外の諸種の記録も扱う状況になると、日々それぞれの分掌から差し出される膨大な記録を藩庁日記という形にまとめ上げることが困難になり、記事内容の省略が行われたり、清書の滞りを促進させたりする措置がとられたりしている(なお、「弘前藩庁日記」については、筆者が執筆した『新編弘前市史 通史編2近世1』233~235頁の記述をもとにしている)。 本史料は享保12年(1727)10月分の「国日記」であるが、そのなかの10月24日条に藩撰史書「津軽一統志」の編纂に関連して、領内から編纂の材料の提供を求めた触書が掲載されている。 享保12年、5代藩主津軽信寿は、家老津軽校尉政方を編纂の責任者とし、藩史の編纂に着手した。政方のほか、用人桜庭半兵衛正盈と藩士相坂則武・伊東祐則らが実際の編纂と校正の実務にあたるという編纂体制がとられた。 史書編纂開始に先立ち、政方は享保12年5月から、長子の喜多村監物(けんもつ)久通(ひさみち)(1712~1748)とともに領内巡視を行い、在々の豪家・寺院・社家・古蹟などを調査した。広田組の郷士平山家の記録によれば、この折の政方の出で立ちは、陣笠をかぶり木綿の股引に草鞋ばき、歩行での廻郷であったという。古い館の跡では見聞の上、在所のものにその館について問い尋ねたという(「津軽年代記」三坤、東京大学史料編纂所蔵)。この巡見で政方は、「在々豪家、寺院、社家、古館等」について悉く記録をとっていたという。10月に「津軽一統志」編纂に関する布達がされているところからみて、この巡見の目的の一つは「津軽一統志」編纂の材料収集にあったと考えたい。 10月24日、弘前藩は、家中・領民に対し、史書編纂への協力を求める長文の布達を出した。布達の大要を示すと、 ①「瑞祥院様(ずいしょういんさま)」(津軽為信)に仕えた家臣36名について、彼らが「御国御開基」(=津軽統一)時にどのような働きをしたのか、些細な言い伝えや物語でも申告すること。また彼らの子孫は名乗り出ること。 ②これ以外にも合戦の殊勲者について、姓名などが伝わっている場合は申し出ること。 ③為信に敵対した「南部大膳大夫」以下24名について、彼らの「由緒并働之様子」についての伝承を些細なことでも書き出すこと。 ④この時点ですでに明確ではなかった「尾崎・新屋・葛原・蓬田」という為信の攻撃をうけた城の主の苗字を申し出ること。 ⑤浪岡領主の名・苗字と由緒を申し出ること。 ⑥為信の代における「御取合之儀」について、その節に関する伝承がある場合、いささかのことでも書き出すこと。 ⑦「瑞祥院様以前御代々之儀」についても、何事でも伝承があれば書き出すこと。 ⑧寛文9年(1669)の蝦夷地派兵に関する覚書、伝聞などの史料を差し出すこと。 ⑨「御家中ハ不及申、寺社方・在々之者」も「善悪大小之事に無遠慮」いささかのことでも伝承があれば、書き出させるように、支配方の丁重な扱いを求める。 ⑩これらに関する書上の最終提出日は来年正月晦日とする。 というものである。 この布達は家臣だけでなく、「寺社方・在々之者迄」に至る、広く領内全体を対象としたものである。「委曲之著述」を心がけるため、幅広く編纂材料収集を試みた姿勢がうかがえる。一方、この布達から、史書の編纂の意図・方針が明らかになる。すなわち、為信以前の大浦家の歩みを明確にし、それをうける形で為信の津軽平定の過程について記し、さらにもう一つの力点として、寛文9年に発生した寛文蝦夷蜂起(シャクシャインの戦い)に出兵した弘前藩の記録を収集・記録しようとしたのである。 「津軽一統志」編纂にあたり、文書等の史料収集作業も実施された模様である。現在に残され、我々研究者の研究対象となっている弘前藩・津軽家に関係の近世初期文書中には、この折の収集と考えられるものが存在することが、長谷川成一氏によって指摘されており、さらに、享保10年頃、弘前藩が官撰史書編纂に着手していた可能性の存在も視野に入れているようである。 例えば、年不詳9月15日付で信枚に宛てた為信夫人仙桃院の消息(国文学研究資料館蔵津軽家文書)は、包紙に「仙桃院様御自筆哉之由 御書壱通 享保十二丁亥年十二月十六日 御表方ニ有之、津軽校尉差上ル」との表書きがある。この包紙の記載は長谷川氏もすでに注目しているが、筆者も同じ点に注目しておきたい。この書状は、日付からみて「津軽一統志」編纂の布達が出た直後に、藩主の手許やその家事運営といった「奥」の組織ではなく、「表方」、すなわち弘前藩のいずれかの政治部局組織に埋もれていたものが見いだされたものである。さらに、「仙桃院様御自筆哉之由」とあるところからみて、「いんきよより」としか差出の署名が記されていない書状を、その内容から判断して信枚の嫡母である仙桃院のものと推定したのが、恐らくは書状を見いだした津軽政方だと考えられる。つまり、本書状は「津軽一統志」編纂作業に伴って見いだされ、編纂担当者が考証を加えて、その価値を判断したと考えられる。 実は、享保12年10月の触書が発せられる前にも、藩に史料が提出され、また史料を保護する動きがあった。元和9年(1623)閏8月26日付の津軽家家臣乾四郎兵衛・小足三左衛門・吉岡十兵衛借銀証文は、信枚が将軍宣下のための上洛供奉費用とみられる「用所」のため、大津の蔵元矢嶋藤五郎から丁銀50貫目を1ヶ月1貫目につき銀20匁の利子で借用し、翌年7月の返済を約定したもので、同日の信枚の裏書きをもつものである。この文書は津軽家所蔵のものではなかったが、弘前藩家臣である平井左馬のもとに「上方之親類」から到来し、享保10年9月10日に藩に提出されたものという。 一方、近衛前久が為信息女富姫の追善のため、「なむあみたふ」の六字名号の各文字を歌の頭に置いて詠んだ歌の詠草とされるものが、弘前城下の藤先寺(曹洞宗)に伝来していたが、「古来ノ有之表具無之」状況であったものを、「享保九年七月桜庭半兵衛殿再興、赤地金襴表具、浅黄絹ニ包ミ、箱入寄進」したという(「藤田雑集」東京大学史料編纂所蔵)。藩史編纂者の一人となる桜庭の関与といい、これなども、藩史の本格的編纂開始以前に、調査・収集が行われていた可能性を否定するものではないだろう。 仙桃院消息の事例は、「津軽一統志」編纂にあたって、「表方」の藩政各部局などでも、関連する史料の発掘作業がなされた可能性を示唆するものと考える。また、詠草や借銀証文が、直接「津軽一統志」に引用され、編纂に反映されたわけではないが、津軽信政の時代から続けられてきた関係文書・史料収集の動き(別項「東日流記」および拙稿「北奥大名津軽家の自己認識形成」参照のこと)が家臣たちにも浸透し認識されていたことが、編纂の前段階において史料献上や保存という行為につながったものと考えられるし、一方津軽政方の廻郷において編纂の材料が収集されたとみられることもあわせ考えれば、享保12年10月の史料収集に関する布達は藩史編纂の開始を告げるものではなく、布達が出される前から、編纂に向けて準備が進められていた可能性があることを指摘しておき、後考をまつことにしたい。 なお、筆者は『新編弘前市史』通史編2近世1の「津軽一統志」編纂に関する記事を執筆したが、その中で本解題において取り上げた布達について、「同年十二月四日に発せられた史料収集を命じる触書」(同書365頁)と記したが、それは筆者の誤記であって、正しくは本解題の通り10月24日のものである。この場を借りて、執筆者として誤りを正し、読者諸賢にお詫びを申し上げる。(千葉一大) 【参考文献】 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年) 松平(上野)秀治「記録」(『日本古文書学講座 第6巻 近世編Ⅰ』雄山閣出版、1979年) 羽賀与七郎「弘前藩庁日記」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年) 青森県文化財保護協会編『みちのく叢書 第3巻 弘前藩旧記伝類』(国書刊行会、1982年) 長谷川成一「津軽藩藩政文書の基礎的研究(2)―拙稿(1)の補訂と新文書の研究―」(『文経論叢』第20巻第3号・人文学科篇Ⅴ、1985年) 千葉一大「北奥大名津軽家の自己認識形成」(『歴史評論』754、2013年)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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弘前図書館
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史2-115
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管理記号
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TK215-1-1162
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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資料分類(大分類)
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津軽家文書
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資料分類(中分類)
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弘前藩庁日記
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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参照データ
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自治体史掲載
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史料収集の触書を記した国日記記事(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第3章第四節)
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