文書名
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封内事実秘苑 一~二十六
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文書名(カナ)
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ホウダイ ジジツ ヒエン イチ カラ ニジュウロク
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文書名(ローマ字)
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Houdai jijitsu hien ichi kara nijuroku
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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工藤四郎右衛門行一
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差出・作成者(カナ)
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クドウ シロウエモン コウイツ
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差出・作成者(ローマ字)
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Kudo Shirouemon Koitsu
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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文政2年(1819)
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作成年終
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数量
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12冊
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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23.5cm
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寸法(横)
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16cm
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材質
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形態に関する注記
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貼紙3(1)
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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1567~1655
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内容年終
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内容
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瑞祥(為信)公、津梁(信枚)公、桂光(信義)公、自永禄十年(1567)至明暦元年(1655)題簽は封内事実苑,一名工藤行一日記、または工藤家記。四郎右衛門は源左衛門と改名する以前の通称。
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内容(カナ)
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ズイショウ タメノブコウ シンリョウ ノブヒラコウ ケイコウ ノブヨシコウ エイロク ジュウネン センゴヒャクロクジュウナナ ヨリ メイレキ ガンネン センロッピャクゴジュウゴ ニ イタル ダイセン ワ ホウダイジジツエン イチメイ クドウ コウイツ ニッキ マタワ クドウ カキ シロウエモン ワ ゲンザエモン ト カイメイ スル イゼン ノ ツウショウ
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内容(ローマ字)
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Zuisyou Tamenobuko Shinryo Nobuhirako Keiko Nobuyoshiko eiroku junen sengohyakurokujunana yori meireki gannen senroppyakugojugo ni itaru daisen wa hodaijijitsuen ichimei Kudo Koitsu nikki matawa Kudo kaki Shiroemon wa Genzaemon to kaimei suru izen no tsusyo
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解題・説明
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「封内事実秘苑(ほうだいじじつひえん)」は、弘前藩士工藤四郎右衛門行一(1785~1846)が編纂した弘前藩史で、文政2年(1821)の自序をもつ。別名を「工藤家記」ともいい、いくつか現存している弘前藩士が編纂した編年体の「○○家記」と呼ばれる弘前藩史の一つである。全33巻からなり、大きく歴代弘前藩主ごとにまとめられており、おおよそ次の構成からなる。 巻1 為信公(永禄10年~慶長12年、1567~1607) 巻2 信枚公(慶長13年~寛永8年、1608~1631) 巻3 信義公(寛永8年~明暦元年、1631~1655) 巻4~巻8 信政公(明暦2年~宝永7年、1656~1710) 巻9 信寿公(正徳元年~享保16年、1711~1731) 巻10・巻11 信著公(享保17年~延享元年、1732~1744) 巻12~巻17 信寧公(延享2年~天明3年、1745~1783) 巻18~巻20 信明公(天明4年~寛政3年、1784~1791) 巻21~巻27 寧親公(寛政4年~文政8年、1792~1825) 巻28~巻31 信順公(文政8年~天保5年、1825~1835) 巻32・巻33 順承公(天保10年~安政6年、1839~1859) 文政2年の編者自序によれば、編者の父工藤行豊が歴代藩主の事績について研究し、さらに宝暦年間(1751~1764)以来の見聞を集めて家に伝えたものを、行一が大きく増補し、さらに追補したものが本書だという。寛政以後の記事は行一の増補による。ただし、行一は記事内容の遺漏を恐れてこれを公にするつもりはなく、家蔵して子孫がさらに増補していくことを願っている。 凡例によれば、編纂に当たって編者は多数の文献を参考とし、とくに木立守貞(きだちもりさだ)の「津軽徧覧日記(つがるへんらんにっき)」(別項参照)、同じく今通麿(こんみちまろ)が編み、為信時代より寛政3年(1791)までを範囲とする「津軽古事伝記」(弘前図書館蔵)、寛政4年以降については自家の記録と藩士葛西清雄の編んだ「葛西秘録」(弘前図書館蔵)を多く用いたと述べている。なお、本書の凡例においては、「津軽徧覧日記」ではなく、同じ著者の手による「津軽歴世録」を用いたとしており、また「津軽歴世録」を「本藩古今通観録(ほんぱんこきんつがんろく)」と同じものとしている。それぞれの項において示してあるようにこれらは別のものである。本稿では、凡例にいう「津軽歴世録」が寛政3年8月をもって擱筆に至っているとある点などから、実際には安永4年で擱筆された「津軽歴世録」ではなく「津軽徧覧日記」を指すものと判断される。なお、為信以前の津軽家の家系は別に「御家系古伝」と名付けて巻首に載せ、さらに津軽家とその一門の系譜は「御正統御系譜」として別録としたという。 当館蔵の写本のうち、ここには文化14年(1817)まで記事がある巻26までを掲げたが、先に掲げたように、これ以降も内容が凡例に記された文政2年(1819)以降にも及んでおり、編者の死後である安政6年(1859)に至っている。『弘前図書館蔵郷土史文献解題』によれば、工藤行一が稿を次いだのは天保5年までであるが、寛政4年から同12年までの記事は、県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校の前身)で教鞭を執り、郷土史家としても知られた棟方悌二(むなかたていじ)(1871~1925)が諸書により増補し、津軽順承の代のできごとをまとめた巻32・巻33は、出典が明記されるなど編集の仕方が異なっており、これも棟方の編によるものとみられるという。ちなみに巻32・巻33の記事には出典として「工藤家記」が挙げられているものがあるが、幕末から明治期にかけて津軽で活躍した国学者下沢保躬(しもざわやすみ)(1838~1896)によれば、工藤家が記録した「工藤家記」は嘉永年間(1848~1854)まで記事があるとしており、工藤行一の死後も工藤家で「家記」として記事が書き継がれていたこと、それが巻32・巻33の材料として用いられていることがうかがえる。 編者の工藤行一は、寛政12年(1800)に家督を継ぎ、碇ヶ関町奉行、青森町奉行を歴任し、天保10年(1839)8月には大目付、翌月には持筒足軽頭となり、天保13年には大組足軽頭格に遇された人物である。(千葉一大) 【参考文献】 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年)附録4~5頁 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年)52~54頁
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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弘前図書館
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史2-117
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管理記号
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YK215-96-1~12
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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資料分類(大分類)
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八木橋文庫
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資料分類(中分類)
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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manifest.jsonへのURL
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参照データ
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関連ページURL
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関連画像URL
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自治体史掲載
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津軽偏覧日記と封内事実秘苑(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第3章第四節)
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出版物・関連資料
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翻訳元の言語
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権利関係・利用条件
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原資料の利用条件
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権利関係・利用条件に関する注記
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緯度・経度・高度に関する注記
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DOI
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既刊目録名
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デジタル化の経緯に関する注記
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