解題・説明
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この絵図は、弘前藩の地方行政区画である飯詰組(いいづめくみ)と広田組(ひろたぐみ)に属する地域を描いたもので、それぞれの村は朱色に塗られた小判型で示され、村名と村内の間数(村落の道に沿った長さ)が記されている。また道筋は朱線、川の流路や溜池は藍色(変更前の流路は水色)で示される。所々の社には鳥居と松の木が描かれる。描かれている地域は、いずれも現在の五所川原市の一部で、江戸時代前期に行われた岩木川流域の開発によって、新田が形成された地域である。 津軽領における新田開発は、藩政初期から津軽平野の中心部で行われてきた。4代藩主津軽信政(つがるのぶまさ)の時代になると、開発は津軽平野北部の岩木川流域に移り、積極的に推進された。 弘前藩の新田開発の形態は、大きく分けると、①藩の重臣層が知行地で開発した知行新田(ちぎょうしんでん)、②豪農や少禄の藩士が自己資金で開発した「小知行派(こちぎょうはだち)」、③藩が蔵入地(くらいりち)(直轄地)を開発する目的で地内の百姓(御蔵百姓)に援助を行い開発された「御蔵派(おくらはだち)」、④藩が自ら開発資金を投下し、用水・排水路の開削や岩木川の築堤などを伴う大規模な開発を行った藩営新田、⑤江戸時代後期、藩主が自らの資金を投じて開発し、その年貢を藩主の個人的な財産とした藩主の直営新田とがあった。このうち藩政中期までに岩木川流域の津軽平野で行われた新田開発は、初め②③、やがて④が主となった。 派とは、派立とも書き、開発者が農地や村落としてふさわしい土地を見出して開発するということで、他藩でいう「見立新田(みたてしんでん)」と同義である。小知行派は小禄の藩士や豪農に開発させ、開発地で30石ないし50石程度の少禄の知行を与えるというものであった。小知行派や御蔵派は水利の良い岩木川上流の開発を進展させたが、開発がしだいに岩木川下流の低湿地に及んでいくと、御蔵百姓や下級藩士たちの資金投下のみで開発することは困難になったため、しだいに大規模な用水路の開削工事(五所川原堰(ごしょがわらぜき)・土淵堰(どえんぜき)など)や護岸工事(岩木川改修)を伴った藩直営の開発へと移行した。広須(ひろす)・木造(きづくり)・金木(かなぎ)・俵元(たわらもと)の各新田などはそのような大規模開発の一環として成立した。 領内の開発が進めば、それを支配するための組織の体制づくりが必要となる。 弘前藩の地方支配の地域区分としては、「庄(しょう)」と「遣(けん)」・「組(くみ)」がある。弘前藩領および黒石領を併せた津軽領(つがるりょう)では、寛文(かんぶん)4年(1664)に江戸幕府が行った朱印改(しゅいんあらため)(「寛文印知(かんぶんいんち)」)において、全国的に行われた郡名の復古・郡域の整理統合を契機として、津軽領でも、それまで用いられてきた田舎郡(いなかぐん)・平賀郡(ひらかぐん)・鼻和郡(はなわぐん)のいわゆる「津軽三郡(つがるさんぐん)」が統合され、津軽郡(つがるぐん)として再編された。一方、旧3郡の郡域は、それぞれ田舎庄(いなかのしょう)・平賀庄(ひらかのしょう)・鼻和庄(はなわのしょう)となり、領内における地域区分「津軽三庄(つがるさんしょう)」として用いられるようになった。郡から庄に改名されたのは、同年に幕府から藩主津軽信政に発給された領知朱印状(りょうちしゅいんじょう)(国文学研究資料館蔵津軽家文書)において正式な郡名を津軽郡としたために、それとの混同を防ぐためとの主張がある(中野渡一耕「村方支配の確立 貞享検地と遣と組」、長谷川成一監修『図説 弘前・黒石・中南津軽の歴史』郷土出版社、2006年所収)。しかし、「弘前藩庁日記(ひろさきはんちょうにっき)(国日記(くににっき))」などの史料や朱印改の先行研究の上から、この混同を防ぐための改称という見解は明確に否定することが可能である。すなわち、朱印改にあたって、津軽領に所在する郡を旧来の3郡として幕府に申告したところ、幕府から受け入れられなかったため、国元で協議の結果、3郡を統合して古くからのこの地域の総称である「津軽」を郡名として採用し、旧来の3郡は津軽郡の中に設けた「庄」という地域区分とした結果、発給された領知朱印状において、初めて公式に「津軽郡」という郡名呼称が認められたというのが実相である。 弘前藩が独自に定めた地方行政区画としては、寛文年間(1661~1673)に「遣(けん)」と呼ばれるものが置かれていることが確認される。「遣」は寛文4年には17、寛文12年には22あったものを15に再編、延宝7年(1679)には14、天和元年(1681)には16となっていた。貞享(じょうきょう)元年(1684)から同4年にかけて行われた貞享の領内検地以後、地方行政組織の改革が実施され、「遣」に代わって「組(くみ)」が設けられた。元禄3年(1690)には、郡奉行が代官管轄区域の再編を行い、当時存在した25組を残したまま13の管轄区域にまとめ、代官は区域ごとに2人ずつ計26人、同様に手代は各区域に3人の配置とした(「津軽年代記〈平山日記〉」巻三乾、東京大学史料編纂所蔵)。津軽平野北部、岩木川中・下流域の新田地帯では組が編成されなかったが、元文の領内検地が済んだ元文2年(1737)には、木造(作)新田(きづくりしんでん)・金木新田(かなぎしんでん)・俵元新田(たわらもとしんでん)をそれぞれ組として位置付けて加え、以下の28組とした。 田舎庄……田舎館組(いなかだてぐみ)・藤崎組(ふじさきぐみ)・柏木組(かしわぎぐみ)・常盤組(ときわぐみ)・増館組・浪岡組(なみおかぐみ)・赤田組・広田組(ひろたぐみ)・飯詰組(いいづめぐみ)・金木組(かなぎぐみ)・浦町組(うらまちぐみ)・横内組(よこうちぐみ)・油川組(あぶらかわぐみ)・後潟組(うしろがたぐみ)・広須組(ひろすぐみ)・木造新田・金木新田・俵元新田 平賀庄……大鰐組(おおわにぐみ)・尾崎組(おざきぐみ)・和徳組(わっとくぐみ)・堀越組(ほりこしぐみ)・大光寺組(だいこうじぐみ)・猿賀組 鼻和庄……高杉組(たかすぎぐみ)・駒越組・藤代組(ふじしろぐみ)・赤石組 これらの組は、年貢徴収事務や民政を担当する代官(だいかん)の管轄の下に置かれた。すべての組に代官の役所である代官所が置かれたわけではなく、その範囲の広狭により、2から4組を一つの代官管轄区域とし、その区域ごとに代官所が置かれることもあった。その区域はしばしば変更がみられる。代官は1区域に2名置かれ、1名は任地の代官所に、また他の1名は弘前の郡奉行所に勤務した。代官所には手代(てだい)(通例各組より2名)と小使(こづかい)(通例各代官所3~5名)がおり、代官を助け、庄屋(しょうや)・五人組頭(ごにんぐみがしら)を支配した。 広田組は、もともと十川(とがわ)と岩木川の合流点以北に広がっていた萢地を寛永年間から開発したもので、やがて小知行派から御蔵派に切り替えられ、延宝4年、15か村からなる五所川原新田として成立した。天和元年には、五所川原新田に下の切遣から支配替えとなった6か村が加わって五所川原遣となり、貞享4年には23か村からなる広田組が成立し、代官所は五所川原村に置かれた。 一方、飯詰組は、梵珠山地西麓の通称下の切と呼ぶ地域の村々で構成される。下の切地域の開発は困難を極めたが、慶安2年(1649)以降、藩直営による新田開発が進められ、寛文4年に下の切遣が置かれ、天和元年飯詰俵元遣と改められた。貞享4年、22ヵ村で構成される飯詰組が成立し、代官所は飯詰村に置かれた。 元禄3年の代官管轄区域の再編に伴って、広田組と飯詰組は1つの代官所管区域とされた。その折の飯詰・広田両組の所属村落と村位、居住戸数については、既出の「津軽年代記(平山日記)」に統計がある。それによれば、飯詰組に属するのは、飯詰(中)・朝日沢(中)・平町(中)・石沢(下)・高野(下)・前田野目(下)・鞠沢(下、中ともあり)・持子沢(下)・原子(中)・神山(中)・福岡(中)・松野木(中)・*若山(中)・天神(中)・羽野木沢(中)・*俵本(中)・野里(中)・*平田(下)・石田坂(下、中ともあり)・金山(中、下ともあり)・川代田(中)・戸沢(下、中ともあり)・壱野沢(中)・太刀打(中)・石畑(中)・*桃崎(中)(以上、カッコ内は村位。枝村は*印)の各村で、内訳は本村22か村、枝村4か村である。また戸数は合計691戸、このうち庄屋19戸、本百姓283戸、町人13戸、水呑百姓376戸となっている。 一方、広田組に属した村は、広田(上)・七ッ館(下)・真黒屋敷(まくろやしき)(上)・*岡田(上)・唐笠柳(中)・*弐本柳(中)・*吹畑(中)・石岡(中)・漆川(下)・沖舘詰(下)・*桜田(下)・川山(下)・姥萢(下)・湊(下)・*半田(下)・五所川原(下)・喰川(下)・平井(下)・柏原(下)・新宮(下)・長橋(下)・種井(下)・田川(下)・赤堀(下)・川元(下)・高瀬(下)・鶴ヶ岡(下)・茂川(もがわ)(下)(以上、カッコ内は村位。枝村は*印)で、本村23か村・枝村5か村の計28か村、戸数は607戸で、うち庄屋23戸、本百姓364戸、百姓水呑218戸、新田百姓1戸、山守1戸であった。なお、この段階で広田組・飯詰組を所管する代官は斉藤弥次兵衛と外崎伝右衛門であった。 隣接した両組が一つの所管区域であったのは意外に短い間のことで、正徳5年(1715)に、飯詰組は金木組と、広田組は赤田組・広須組と組み合わされている。(千葉一大) 【参考文献】 弘前大学國史研究会編『津軽史事典』(名著出版、1977年) 菊地利夫『続・新田開発─事例編』(古今書院、1986年) 泉谷征孝「Ⅰ 青森県の稲作の歴史」(『’94AOMORI美しく豊かな村づくり全国大会協賛 稲生川と土淵堰展 大地を拓いた人々 展示解説』青森県立郷土館、1994年) 本田伸「Ⅲ 土淵堰と津軽地方の用水開発」(前同書) 千葉一大「『寛文印知』と奥羽地方」(『青山史学』23・沼田哲教授追悼号、2005年) 五所川原市編集・発行『五所川原市合併10周年記念 五所川原の地名』(2015年)
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