解題・説明
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弘前藩は、元禄8年(1695)の元禄大飢饉(げんろくだいききん)において多数の餓死者を出した。その原因のひとつとして、稲の主力品種が多収量は見込めるものの冷害に弱い晩稲(おくて)だったことが挙げられる。この飢饉を契機に、津軽地域では稲作の技術や農民生活のあり方を内容とする「農書(のうしょ)」が編纂されるようになる。その代表的なものとみなされ、かつ江戸時代に全国各地で著された農書の中でも、土地の風土に適合した稲作体験をまとめた農民の手による農書の代表的なものとされるのが、安永5年(1776)に堂野前村(どうのまえむら)(現南津軽郡田舎館村)に住む中村喜時が編んだ「耕作噺」である。 同書は冒頭、「津軽徧覧日記(つがるへんらんにっき)」の編者として知られる弘前藩士木立要左衛門守貞(1726~1801)の序(始言)があり、各節の冒頭が「老人噺けるは……」と始まる老人の談話の体裁で、噺発端・風土・気候・農時・日積・農具・田拵・苗代・種物・打起・畔放・塊攪・植付・草切・水利・糞養・鍛錬・刈積・村納・御収納・仕附・人使・書添の23段から構成される。 同書の特徴とされるのが、津軽地方、特に中村喜時の居住する浅瀬石川(あせいしがわ)下流の津軽平野南端を対象に、「御国の風土は春近く秋近く、夏中不時に冷気あり」という厳しい気象条件や土地条件を踏まえながら、「土地は虚言を申さず」という言葉に示されるように真摯な姿勢で農事を捉え、「秋納めに取実違わぬ稲草作り」、すなわち確実に貢納が可能な稲作を求めようとしたことにある。展開される稲作技術論は夏の短さや低温、冷害の発生しやすい土地柄から導き出した早稲の植え付け奨励、それを前提とした稲作技術が詳細に論じられる。さらに技術論のみに堕さず、稲作経営上の問題、農業への誇り、農家の意識面にも踏み込んだ内容となっている。また、農作業の経験や季節ごとの岩木山の山容の変化といった津軽独特の農事暦・慣習といった伝承を尊重する姿勢も見られる。 著者の中村喜時は、堂野前・東光寺(とうこうじ)(現田舎館村)両村の庄屋を代々務めていた中村家の4代目左兵衛ではないかと考えられている。彼は元文4年(1740)から宝暦5年(1755)まで堂野前・東光寺両村の庄屋(しょうや)を務めたのち、同年5月より田舎館(いなかだて)・浪岡(なみおか)・増館(ますだて)3か組の大庄屋(おおじょうや)に就き、宝暦11年10月の大庄屋制廃止まで務めている。明和3年(1766)郷士(ごうし)に取り立てられ、南津軽最大の用水路小阿弥堰(こあみぜき)の管理にあたる小阿弥堰奉行に安永9年(1780)まで在職した人物である。左兵衛が父から相続した田地は一千人役(約70ヘクタール)にのぼり、安永6年における米の総収入が1869俵、このうち小作米が1233俵、手作米は251俵であった。田地を貸し付ける小作人は57名に上り、手作地も借子と呼ばれる年季奉公人に依って耕作されていた。さらに酒造業も営んでおり、小作米と造酒による金銭収入は銀78貫791匁3分に上っている。したがって左兵衛は経営規模の大きい豪農であった。 「耕作噺」は津軽地方に多くの写本が存在しており、非常に参考にされていたことが明らかである。近代に入って改めて注目され、大正3年(1914)、前年の大冷害によって冷害凶作への関心が集まる中、地元紙『東奥日報(とうおうにっぽう)』が取り上げて概要を紹介し、さらに青森県農会(あおもりけんのうかい)も機関誌『青森県農会報』に第45号から第67号にかけて連載(大正4年10月~大正6年9月)し、全文を紹介した。全国的に広く知られることになったのは、小野武夫が編纂した『近世地方経済史料』第2巻(近世地方経済史料刊行会、1932年)に収録されたことによる。その後、『日本農書全集』第1巻(社団法人農山漁村文化協会、1977年)にも収められた。(千葉一大) 【参考文献】 工藤睦男「津軽の農書『耕作噺』の著者中村喜時と生家中村家について」(『弘前大学教育学部紀要』A 16、1966年) 古島敏雄「近世農書・『耕作噺』を読む─真の農学創造のために─」(古島敏雄・稲見五郎・森山泰太郎・田口勝一郎・小西正泰解題・校注『日本農書全集 1 耕作噺・奥民図彙・労農置土産・菜種作り方取立个条書・除稲虫之法』)(社団法人農山漁村文化協会、1977年) 稲見五郎「解題」(前同書) 工藤睦男「中村喜時─『耕作噺』を著し、寒冷地農業に尽くす(南津軽)」(社団法人農山漁村文化協会企画・発行『全国の伝承 江戸時代人づくり風土記 聞き書きによる知恵シリーズ(2) ふるさとの人と知恵 青森』1992年) 小石川透「北方史の中の津軽 39 農業への誇りと願い」(『陸奥新報』2009年12月7日付掲載)
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