文書名
|
宝暦四甲戌歳御改帳之写
|
文書名(カナ)
|
ホウレキ ヨン キノエイヌドシ オンアラタメ チョウ ノ ウツシ
|
文書名(ローマ字)
|
Houreki yon kinoeinudoshi on'aratame cho no utsushi
|
別名
|
|
別名(カナ)
|
|
別名(ローマ字)
|
|
文書名(欧文)
|
|
文書名に関する注記
|
|
差出・作成者
|
|
差出・作成者(カナ)
|
|
差出・作成者(ローマ字)
|
|
宛所
|
|
宛所(カナ)
|
|
宛所(ローマ字)
|
|
書写者
|
|
書写者(カナ)
|
|
書写者(ローマ字)
|
|
作成年
|
宝暦4年(1754)
|
作成年終
|
|
数量
|
1冊(78丁)
|
形状
|
|
寸法
|
|
寸法(縦)
|
21cm
|
寸法(横)
|
14cm
|
材質
|
|
形態に関する注記
|
|
保存状況
|
|
縮尺
|
|
その他の注記
|
写
|
言語
|
日本語
|
ISBN
|
|
ISSN
|
|
主題
|
|
主題(カナ)
|
|
主題(ローマ字)
|
|
関連する地域・場所
|
|
関連する地域・場所(カナ)
|
|
関連する地域・場所(ローマ字)
|
|
関連する人物・団体
|
釜萢 兵左衛門 竹中 勘次郎 乳井 市郎左衛門(承之)
|
関連する人物・団体(カナ)
|
カマヤチ ヘイザエモン タケナカ カンジロウ ニュウイ イチロウザエモン ツグユキ
|
関連する人物・団体(ローマ字)
|
Kamayachi Heizaemon Takenaka Kanziro Nyui Ichirozaemon Tsuguyuki
|
内容年
|
|
内容年終
|
|
内容
|
上方御借方金銀員数調之表 江戸御借方新古金銀員数調之表 上方御常用金員数調之表 江戸御仕送金御定調高并御払廉別
|
内容(カナ)
|
カミガタ オンカリカタ キンギン インズウ シラベ ノ ヒョウ エド オン カリカタ シンコ キンギン インズウ シラベ ノ ヒョウ カミガタ オンジョウヨウキン インズウ シラベ ノ ヒョウ エド オンシオクリキン オサダメ シラベ ダカ ナラビニ オハライ カドベツ
|
内容(ローマ字)
|
Kamigata onkarikata kingin inzu shirabe no hyo Edo onkarikata shinko kingin inzu shirabe no hyo Kamigata onjoyokin inzu shirabe no hyo Edo onshiokurikin osadameshirabedaka narabini oharai kadobetsu
|
解題・説明
|
江戸時代中期に、諸藩の財政状況は次第に悪化していくが、弘前藩もその例に漏れない。乳井貢(にゅういみつぎ)による宝暦改革はその状況を打開するために試みられたものであるが、本史料は改革開始前の藩の財政状況を知ることができる貴重な史料である。 弘前藩では延享2年(1745)に領内で発生した大洪水や、寛延2年(1749)の飢饉以降藩財政が一層窮乏の度合いを増し、本史料によれば、当時の借財高は、合計35、6万両に及んでいた。この内訳をみると、上方では総額24万4235両、江戸で4万1900両3分、国許で6、7万両となる。時期が少し後になるが、安永6年(1777)の弘前藩の収入は米15万9081石余、金銀合計3万2294両余、米1石を金1両に換算すると約20万両前後である。藩の年間総収入を大きく上回る数字からも、その借財の多さがうかがえる。 上方における借財の特徴としては、茨木屋(借財総額9万383両)、鴻池(こうのいけ)(同総額2万6222両1分)、佐藤(同総額1万4801両3分)といった特定の豪商からのものが多いことで、彼らからの借財は上方の借財全体の53.8%を占める。これらの豪商は、弘前藩から年貢米や特産品の販売を任されている蔵元(くらもと)と呼ばれる出入り商人であるが、弘前藩が大坂において売却する年貢米を担保として金を貸していた。弘前藩が飢饉などを理由として米を売却できなかった結果、返済が不能となり借財が増加したのである。茨木屋は享保10年(1725)から、また佐藤は寛延2年から返済の延滞が続いている。鴻池に対する借財は延享4年(1747)からであるが、これは茨木屋にさらなる借財の申し出を断られたことによるもので、鴻池をその代わりに蔵元に指定したことによる。一方、弘前藩は、元文4年(1737)時点において上方における借財高が合計14万4602両に及んでいたが、それを10か年ないし20か年の年賦払いで返済を進めていた。その未払い分がこの段階で9万6236両1分に上っている。返済は元金の返済がほぼできず、利子のみの返済であったが、この宝暦4年の段階ではその利子の返済すら困難な状況に陥っていた。 一方、江戸においては、特定の豪商からの巨額に及ぶ借財は見られず、小口の借金が焦げ付いた事例が多い。延享年間(1744~1748)から宝暦4年まで多数の高利貸から年2割の高利で借金が積み重なっていて、その額が元金・利息を含めて総額1万0610両(江戸における借財の25.3%)となっている。それらは元金返済が出来ずに利子のみ支払っていたが、宝暦3年からは利子返済も不能となっていた。さらに江戸廻米を引き当てにした借財も元金・利息を合わせて9817両余となっており、寛延2年以降返済が滞っていた。江戸における借財の特徴としては、盲人仲間が幕府の保護を付与されて行った高利の貸付金である座頭金(ざとうがね)や、寺社が先祖供養や建築・修理などのために寄進された金銭を利殖のために貸し付けた祠堂金(しどうきん)に手を出していることで、悪質な貸し付け・強引な取り立ての多かったこれらを受け入れざるを得なかったところに、国許からの送金をあてに出来なかった江戸藩邸の苦衷が見て取れる。(千葉一大) 【参考文献】 工藤睦男「宝暦改革前における弘前藩の財政事情―宝暦4年の借財高をめぐる一考察―」(『弘前大学教育学部紀要』第9巻、1962年)
|
解題・説明(英語)
|
-
|
来歴
|
|
来歴(英語)
|
|
所蔵機関
|
弘前図書館
|
原資料の所在地
|
弘前図書館
|
資料番号
|
通史2-130
|
管理記号
|
GK342-4
|
カテゴリ区分
|
文書・記録
|
資料種別
|
古文書
|
資料分類(大分類)
|
岩見文庫
|
資料分類(中分類)
|
|
資料分類(小分類)
|
|
文化財情報
|
|
manifest.jsonへのURL
|
|
参照データ
|
|
関連ページURL
|
|
関連画像URL
|
|
自治体史掲載
|
宝暦四年甲戌御改革帳之写(上方の借財、江戸の借財)(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第一節)
|
出版物・関連資料
|
|
翻訳元の言語
|
|
権利関係・利用条件
|
|
原資料の利用条件
|
|
権利関係・利用条件に関する注記
|
|
緯度・経度・高度に関する注記
|
|
DOI
|
|
既刊目録名
|
|
デジタル化の経緯に関する注記
|
|