解題・説明
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寛政9年(1797)10月16日、弘前藩の馬廻組頭(うままわりくみがしら)(表書院番頭(おもてしょいんばんがしら))に就任した山田剛太郎勝雅(やまだごうたろうかつまさ)(勝承(かつつぐ))(1771~1805)が、家老の津軽多膳貞栄(つがるたぜんさだよし)・津軽主水尚徳(つがるもんどひさのり)・喜多村監物久隆(きたむらけんもつひさたか)・大道寺隼人繁殖(だいどうじはやとしげたね)・牧野左次郎恒貞(まきのさじろうつねさだ)に宛て提出した、役職就任にあたっての誓約書である。 大名家の家臣は、役職就任時に大名に対して、忠誠と職務の誠実な履行を誓約する本文書のような書面を提出した。このような文書様式は藩士誓詞(はんしせいし)と呼ばれ、誓約文である前書に罰文である神文を継いだ起請文の形式をとる。 前文においては、①藩主のため表裏なく奉公すること、②法令を遵守し支配の諸士を依怙贔屓なく扱うこと、③役職にあるものとしての心構えを保ち、主君に対する不義を企てたり、徒党を結んで誓約を交わしたりしないことを誓い、神文においては、誓いに反する場合日本国中の神にかけて神罰・冥罰を蒙ることを述べ、最後に署名、花押を据え、血判を捺す。書札礼によれば、血判は、男子が右手薬指、女子は左手薬指によって行い、花押の空白部分(穴)の白いところに捺すものとされていた。 弘前藩の藩士誓詞は、目的や役職ごとに前書の誓約内容や宛所が異なっている。寛保2年(1742)に家老となった喜多村監物久通(きたむらけんもつひさみち)の事例にみられるように、藩の重職に就く者の場合には、その誓詞に政治向きの守秘義務、主家に対する誠実な職務履行などの文言が加えられている。家老・城代・組頭・用人・側用人・大目付・目付・近習・町奉行・勘定奉行ら主として表方の役人が家老宛、右筆・台所頭・小姓頭・錠口役・近習小姓ら主に側役人・奥向の役職は用人宛などと宛所も定められていた。さらに、奥勤めの女中たちにも「女中誓詞」といって、藩士同様に、表裏のない奉公、守秘義務を誓う点は藩主と同様だが、清潔さを維持し道具類を大切にするなどが盛りこまれている点は藩士と同様で、さらに、身辺の清潔さを維持する、道具類を大切にする、などの内容が加えられている。 神文の部分には、神社や寺院が発行する「牛王法印(ごおうほういん)」と呼ばれる護符が用いられるが、弘前藩の藩士誓詞の場合、「岩木山宝印」の文字が押された護符が用いられており、その最大の特徴ともなっている。岩木山神社には、元亀4年(1573)12月の年紀がある護符の版木が伝わっており、この版木の「岩木山宝印」の文字は、弘前藩士の誓詞神文に押されたものと同じである。 差出人の山田勝雅は、天明4年(1784)10月、用人・馬廻組頭を勤めた祖父彦兵衛勝令(ひこべえかつはる)が前年の大凶作への対応をめぐって蟄居を命じられたことによりその家督を継ぎ、500石を知行した。寛政4年(1792)3月諸手足軽頭(もろてあしがるがしら)となり、同年11月にロシア使節ラクスマンの来航に伴い、弘前藩が松前固めを命じられた際に渡海して任に当たっている。幕府は寛政9年10月、弘前藩に対して箱館警備を命じているが、勝承は馬廻組頭就任と同時に箱館警備の士大将を命じられ、翌年正月より8月まで箱館に在勤している。(千葉一大) 【参考文献】 「津軽旧記伝」五(東京大学史料編纂所蔵) 日本歴史学会編『概説古文書学 近世編』(吉川弘文館、1984年)145~152頁 市毛幹幸「北方史の中の津軽 79 母なる岩木山に誓う」(『陸奥新報』2011年10月17日付紙面)
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