文書名
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秘書 全
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文書名(カナ)
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ヒショ ゼン
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文書名(ローマ字)
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Hisyo zen
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別名
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毛内宣応存寄書
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別名(カナ)
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モウナイ ギオウ ゾンジヨリショ
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別名(ローマ字)
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Mounai Gio zonjiyorisyo
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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毛内宣応(茂粛)
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差出・作成者(カナ)
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モウナイ ギオウ シゲトシ
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差出・作成者(ローマ字)
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Mounai Gio Shigetoshi
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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天明4年(1784)
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作成年終
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数量
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1冊(130丁,56丁)
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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24cm
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寸法(横)
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17cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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天明4年(1784)
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内容年終
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内容
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天明4年(1784)毛内の藩士土着等の意見書
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内容(カナ)
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テンメイ ヨネン センナナヒャクハチジュウヨン モウナイ ノ ハンシ ドチャク トウ ノ イケンショ
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内容(ローマ字)
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Tenmei yonen sennanahyakuhachijuyon Mounai no hanshi dochaku tou no ikensyo
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解題・説明
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外題は「秘書 毛内宜応存寄書 全」とあり、一般には「存寄書(ぞんじよりしょ)」と称されることが多い。「秘書 全」は書写した人物が付けた題目だと推測される。天明飢饉(てんめいききん)対策に係る意見書であり、他にも写しが多く残っている。 著者の毛内有右衛門茂粛(もうないありえもんしげとし)は有右衛門茂巧(しげよし)の嫡男で宝暦8年(1758)7月20日に家督300石、その後足軽組頭を仰せ付けられ天明2年(1782)4月1日、病身に付き御役御免隠居。宜応(ぎおう)は隠居後の名である。剛直方正の人とされ、和学・神道にも優れ菅江真澄(すがえますみ)ら文人との交流も多かった。 父の有右衛門茂巧は用人として、元司職乳井貢(にゅういみつぐ)と共にいわゆる弘前藩宝暦改革(ほうれきかいかく)を推進した人物である。ただし、「標符(ひょうふ)」の発行をめぐって乳井と対立し宝暦6年に御役御免となっている。宜応もまた、乳井とは政策的に対立していた。宜応の子、有右衛門茂幹(しげもと)は、大目付、用人を勤めている。雲林(うんりん)は隠居後の画号。津軽南画(なんが)の始祖とされ、平尾魯仙(ひらおろせん)ら多くの門人を輩出した。 本意見書(「存寄書」)が提出された天明4年9月は天明飢饉の最中であり、同年1月に襲封した弘前藩8代藩主津軽信明(のぶはる)にとって大きな試練の時であった。そのため信明は襲封直後の天明4年3月に「自筆書付」において意見書の提出と人材登用を奨励している(「藤田家記」)。宜応は既に隠居の身ではあったが、信明の意向に添って本意見書を提出したのである。このことは、本書にも記載されている。 本書は、9月3日付1通①、9月18日付1通②、9月27日付1通③、9月晦日付3通④⑤⑥の、計6通の「覚」によって構成されている。 ①は藩政の本来あるべき姿について6ヶ条に渡って述べた後、近年の法令が一時的な対応であり、永久の政策を立てるべきとして15ヶ条をあげている。しかし、これが単なる条目ばかりであったため、翌4日に藩から委細申し出るように仰せ付けられている。 ②はこれに対しての宜応からの返答書であるが、筆紙に及び難いとして藩主への謁見を逆に申し出ている。③も同様の趣旨であり、藩からの返答を催促している。つまり、①において条目のみにとどめたのは、直接謁見して迅速な対応を迫ろうとしたためであったものと考えられる。。その結果29日に、事前に詳しい意見書を提出しその内容を熟覧の上で藩主謁見と旨の通知が入り(④中に記載)、9月晦日に提出されたのが④⑤⑥の3通である。 ⑤⑥は④の別紙であり、④⑤は⑥の前書きの内容に当たり、①から⑤まで述べてきた内容は畢竟「人材の登用」と「土着の実施」の2点に帰するとして、そのことを⑥において展開している。従って⑥が本書の中心となっており、本書の3分の2の量を占めている。 本意見書は宜応の願い通り同年11月11日に直接藩主に進言、熟談の結果、藩主の御意を得て、同年12月28日、藩士土着を志向する最初の法令として結実する。弘前藩寛政革(かんせいかいかく)の中心政策である藩士土着(はんしどちゃく)策は寛政4年(1792)8月から本格的に実施されるが、その政策的意図を考える上で、本意見書は藩政上重要な位置を占める意見書と言える。 藩士土着策は、端的には、これまで弘前城下に住み(城下集住(じょうかしゅうじゅう)策)、自分の知行高(ちぎょうだか)に見合った給与(米または代金)を藩庫から支給されていた藩士の生活(蔵米知行制(くらまいちぎょうせい))を、農村に引っ越しさせ(在宅制(ざいたくせい))、自ら耕作に従事するとともに、給与は百姓から直接徴収するという生活(地方知行制(じかたちぎょうせい))に転換させるという政策であった。 この政策は江戸中期の儒学者である荻生徂徠の『政談』にも地方給人制の復活として見えるものであり、弘前藩による全く独創的な政策とは言いがたいが、その実施という点においては全国的にも類例を見ないものであった。藩主信明が徂徠の門人に講義を受けていた(『津軽歴代記類 上』)ことや、本意見書の理論的背景として『政談』が度々引用されていることから知られるように、宜応が徂徠学に傾倒していたことが、その要因としてあげられると考えられる。 本意見書の概略は、まず21ヶ条にわたって土着の「徳」が説かれる。それは、天明飢饉後の農村状況と藩士財政の窮乏を克服できる方策が藩士土着策であり、これが克服されることによって、藩財政そのものも好転するとする。農村状況は、①廃田の増大、②農・工・商三民の本業遊離化傾向、③治安の悪化、④耕作の無計画性、に集約され、いずれの克服にも土着の効果が期待できるとする。藩士財政については、①出費の削減、②藩士財政を藩財政から自立させる(切り離す)ことによる藩財政の好転、③武備の充実、が図られるとしている。宜応は藩士土着策が、この時期、藩の抱えた諸課題解決のための最も効果的な政策と考えていたのである。具体的な内容については以下の参考文献を参照されたい。 なお、従来「土着制」とされてきたが、史料的には「在宅」の文言が頻出することから「在宅制」とし、また法令も「農村に土着を命じる」というよりは「在宅を命じる」としていることから、近年は「在宅制」「在宅令」とすることが多くなってきている。(瀧本壽史) 【参考文献】 瀧本壽史「津軽藩改革意見書の分析」(『弘前大学国史研究』79 1985年) 瀧本壽史「寛政改革と藩士土着政策」(長谷川成一編『津軽藩の基礎的研究』国書刊行会 1984年) 青森県文化財保護協会編『みちのく叢書第3巻 津軽藩旧記伝類』(国書刊行会、1982年) 青森県文化財保護協会編『みちのく叢書第4巻 津軽歴代記類 上』(国書刊行会、1982年)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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弘前図書館
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史2-153
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管理記号
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GK304-1
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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資料分類(大分類)
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岩見文庫
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資料分類(中分類)
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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manifest.jsonへのURL
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参照データ
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関連ページURL
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関連画像URL
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自治体史掲載
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毛内宣応の存寄書(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第二節)
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出版物・関連資料
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翻訳元の言語
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権利関係・利用条件
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原資料の利用条件
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権利関係・利用条件に関する注記
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緯度・経度・高度に関する注記
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DOI
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既刊目録名
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デジタル化の経緯に関する注記
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