解題・説明
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人を乗せ、担ぎ手が人力で持ち上げて運ぶ乗り物を輿(こし)という。轅(ながえ)(轅輿(ながえごし(えんよ)))は、輿の種類の一つで、担ぎ手は前後5人ずつ、腰の高さに抱えられたものだという。 轅は、江戸時代の武家において、大名が最高級の礼装である衣冠束帯(いかんそくたい)を着用し、江戸城の重要な儀礼や、将軍の菩提寺(寛永寺(かんえいじ)・増上寺(ぞうじょうじ))参詣に予参する際などに、幕府によって認められた大名家のみが使用することが可能なものであった。文化13年(1816)の段階では、金沢藩主前田家、福井藩主松平家、鹿児島藩主島津家、広島藩主浅野家、松江藩主松平家、佐賀藩主鍋島(なべしま)家、久留米藩主有馬家、徳島藩主蜂須賀(はちすか)家、米沢藩主上杉家、秋田藩主佐竹家、川越藩主松平家、高知藩主山内家、対馬藩主宗(そう)家、宇和島藩主伊達家、岡山藩主池田家、萩藩主毛利家、仙台藩主伊達家、富山藩主前田家、津山藩主松平家、福岡藩主黒田家、二本松藩主丹羽家、鳥取藩主池田家、以上22家が使用を許されているが、このうち富山前田家と丹羽家は、位階が従四位下(じゅしのげ)に達してから使用が許された(年号闕四月「御三家方庶流衣冠束帯之節轅為相用度儀ニ付取調申上候書付」、菊池駿助編輯『徳川禁令考』前聚第4帙、吉川弘文館、1931年、508~511頁)。大名にとって、轅はステータス・シンボルであり、その使用は社会的な地位を誇示するものであった。 弘前藩主津軽家は轅の使用を認められる家ではなかったが、江戸時代後期になって、藩主津軽寧親(つがるやすちか)(1765~1833)が、領知高の相次ぐ高直しや官位昇進を実現させたことを機に、文化8年(1811)、本家と仰ぐ京都の近衛家(このえけ)から以前贈られたという轅の使用を老中松平信明(まつだいらのぶあきら)(1763~1817)に内願したものの、拒否されていた(松浦静山(まつらせいざん)「甲子夜話(かっしやわ)」九十六、および「津軽越中守逼塞被仰付控」国文学研究資料館蔵津軽家文書)。 文政10年(1827)4月18日、江戸城では将軍徳川家斉(とくがわいえなり)(1773~1841)の太政大臣(だいじょうだいじん)任官、その世継ぎである徳川家慶(とくがわいえよし)(1793~1853)を従一位(じゅいちい)に叙する儀式があわせて行われた。「近代の御盛事」で、諸大名登城も「さぞや美美しかるらん」(「甲子夜話」九十四)と予想されたこの折、当時の藩主津軽信順(つがるのぶゆき)(1800~1862)は、轅に乗って登城した。信順は美麗な行列で市中の耳目を驚かせ、儀式が終わって本所(ほんじょ)(現東京都墨田区)の上屋敷に戻る際には、「乗轅の体を人に見せん迚、わざと路を迂廻して通行」したという(「甲子夜話」九十六)。 4月25日、幕府は、信順の名代として出頭した出羽亀田藩主岩城隆喜(いわきたかひろ)(信順の義兄、1791~1854)に対し、幕府が父寧親の願いを拒否したにもかかわらず、それを心得ず轅を使用したことを不束であるとして、信順に逼塞を命じた(「柳営日次記」国立公文書館蔵)。また、信順の轅使用を咎めなかった関係役人もその不届きゆえに処罰された(「公儀御定閉門之事」青森県立郷土館蔵)。弘前には5月3日朝に急報がもたらされ、家中はもとより弘前城下・領内全域に対しても「慎」や「御締」が命じられた(「弘前藩庁日記(国日記)」同日条)。この事件を「轅輿事件(ながえごし(えんよ)じけん)」という。 この問題を解く鍵は、肥前平戸(ひらど)藩の前藩主松浦静山(諱は清(きよし)、1760~1841)がこの件を聞いて、「四品(しほん)(従四位下の位を指す)の人もこれに乗るか」(「甲子夜話」九十四)と述べたことにある。 江戸幕府において「寛政の改革」を行ったことで知られる老中松平定信(まつだいらさだのぶ)(1758~1829)は、自著『花月草紙(かげつそうし)』のなかで、当時の大名について、高い官位を求め、江戸市中を通る自らの行列に、自分の家に認められた高い格式を象徴する装いを求める風潮があることを指摘しているが、それがこの時期におけるいわば「大名気質(だいみょうかたぎ)」だった。信順が幕府の盛大な儀式に参列するにあたり、轅を用いて乗り込むことは、向上した津軽家の家格を示すのにもってこいの機会だと考えても不思議ではない。 しかし、大名の家格は、将軍を頂点とする武家社会のヒエラルキーを形づくるもので、将軍家が許可することによって、その威光を示すという働きがあった。津軽家では幕府に対して提出した書付の中で、幕府法令も知らず、家格が同格の大名の中に轅を使用したものがおり、信順の従四位下(じゅしのげ)という位階は轅を使用しても支障はなく、届け出も不要だと考えたと釈明したが(「甲子夜話」九十六)、寧親が使用を拒否された際の位階も信順と同じ従四位下であり、同じ殿席(てんせき)(大名の家格の一つで、その基準ともなる江戸城における大名の控えの間のこと。津軽家は大広間席)でも轅を使用しない大名も存在することから、それらに照らし合わせれば、分不相応な信順の轅使用は認められるはずもなく、以後も使用を認めないという判断が幕府においてなされても当然であった(前掲「御三家方庶流衣冠束帯之節轅為相用度儀ニ付取調申上候書付」)。将軍が許可権を持つ大名の身分や格式を逸脱することは、許可権者である将軍の権威を犯すことにつながり、許されないことだったのである。 大名の家格は、江戸市中でも関心が高いだけに、事件後の津軽家に対する風当たりは強かった。事件を風刺した多くの落書や、狂歌・川柳が伝えられていることからもそれがうかがえる(『藤岡屋日記』・「公儀御定閉門之事」)。隠居した寧親が居住する大川端(おおかわばた)(現東京都墨田区横網)の下屋敷に卑猥な落書きや領地つきの売り家という貼り紙をする者、道に落とし穴を掘り、憚って夜に出入りする家臣が落ちるのを見て笑う者までいたという(「甲子夜話」九十六)。一方、津軽家と家同士が長らく対立関係にあった盛岡藩主南部利済(なんぶとしただ)(1797~1855)は、家臣に対して、今回津軽家が恥辱を蒙ったのは憐れむべきことであるとして、信順の逼塞中、家中の者が津軽家に対し事を荒立てず穏便に対するよう命じ、聞く者にその徳を称せられたという(「甲子夜話続編」二)。 なお、『新編弘前市史』通史編近世1に掲載された輿の図は、実は津軽信順が使用した轅の姿を示したものではない。この図は、松平定信が編纂し、文化元年(1804)に成立した、荷物や人を運ぶ車や輿に関する故実書『輿車図考(よしゃずこう)』に掲載されたものである。定信の伝記である「守国公御伝記」巻之十(国立国会図書館蔵)や、定信自身による『輿車図考』の序文によって、同書の編纂経緯をまとめると、故事や古典文学に関心が深かった定信が、「平家物語」を題材とする絵を描かせた際に、利用に細かな規定のある輿や車について混乱することがあったため、国学者塙保己一(はなわほきいち)(1746~1821)の門下で国学に通じた稲山行教に文献から事例を収集させ、住吉派の絵師渡辺広輝(1778~1838)に輿・車を描いた絵画の模写、さらには残されていた実物を材料の寸法や金物の大小がわかるほど綿密な写生を行わせた。そして、定信自身が渡辺の調査をもとに詞書を自ら記して15巻に仕立てた。また、武家伝奏を勤め、故実にも明るかった公卿の広橋伊光(ひろはしこれみつ)(1745~1823)や故実家橋本経亮(はしもとつねあきら(つねすけ))(1755~1805)、幕府右筆で国学者の屋代弘賢(やしろひろかた)(1758~1841)にも、内容について意見を求めている。同書では輿や車の起源、さらには天皇が乗用に用いた鳳輦から、農業用の水を田に送り込む水車に至るまで、種類別に項目を立て、古文献などから記事を引用して考証を加え、さらには各種牛車・輿などに彩色の図を加えてある。 『輿車図考』の輿の図は、後奈良天皇が大休国師(だいきゅうこくし)(大休宗休(だいきゅうそうきゅう)、円満本光国師(えんまんほんこうこくし)、1468~1519)という高僧に下賜し、京都の妙心寺に伝来していた輿の図である。『新編弘前市史』においては、轅輿事件に直接かかわりのあるものではないが、輿というものを視覚的にイメージしてもらうために、市史の編集者が便宜的にこの図版を選んだものとみられる。 また、ここに掲げた『輿車図考』は、『故実叢書』に収録されたものである。この叢書は、明治30年代(1897~1906)に、公家や武家の制度・儀式・行事・服飾・調度に関する故実についての文献を集めて刊行したもので、古典学者の今泉定介(いまいずみさだすけ)(定助とも、1863~1944)の編になる。今泉の緒言によれば、刊行が始まる4、5年前に、学友たちとの会話の中で、国史・国文を学ぶ必要があることを知りながら、それにかかわる法制や故実について貴ばない雰囲気があることを憂いて、それらの普及を図るために叢書を刊行することを思い立ち、企画を書肆に持ち込んで賛同を得たことから刊行に至ったのだという。同書はまず和装本の形で、明治32年から翌年にかけて第一輯が、さらに第二輯が同34年から同35年にかけ、第三輯は同36年から同39年にかけて刊行された。本サイトで掲げたものは、弘前図書館蔵の和装本の画像である。 大正12年(1923)の関東大震災で同書は絶版となり、版を改めて、洋装本『増訂 故実叢書』」が昭和3年(1928)から同8年にかけて刊行された。旧版をすべて踏襲したわけではなく、新たに「標注令義解校本」「内裏儀式」「儀式」「北山抄」「西宮記」「江家次第」といった朝廷の儀礼書を加えるなど、旧版の増訂、文献の入れ替えなどを行った。また、戦後にも版が改まって、『(新訂増補)故実叢書』が昭和27年(1952)から同32年に刊行されているが、こちらも、旧版からの内容の変更がある。平成5年(1993)に刊行された最新版の『(改訂増補)故実叢書』では、旧版で除かれた一部書目や図版が再び組み入れられている。(千葉一大) 【参考文献】 松平定信(西尾実・松平定光校訂)『花月草紙』(岩波書店、第1刷1939年、第7刷1995年) 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』下巻之壱(陸奥新報社、1973年) 中村幸彦・中野三敏校訂『甲子夜話』6(平凡社、1978年) 中村幸彦・中野三敏校訂『甲子夜話続篇』1(平凡社、1979年) 鈴木棠三・小池章太郎編『近世庶民生活資料 藤岡屋日記』第1巻(三一書房、1987年) 朝尾直弘編『日本の近世 7 身分と格式』(中央公論社、1992年) 故実叢書編集部『改訂増補 故実叢書 36巻 輿車図・輿車図考他』(明治図書出版、1993年) 渡辺浩「「御威光」と象徴─徳川政治体制の一側面─」(『東アジアの王権と思想』東京大学出版会、1997年) 橋本義彦「故実叢書」(加藤友康・由井正臣編集『日本史文献解題事典』吉川弘文館、2000年) 東京都江戸東京博物館編集『江戸東京博物館開館15周年記念特別展 珠玉の輿─江戸と乗物─』(東京都江戸東京博物館・株式会社読売新聞東京本社、2008年) 渡辺浩『日本政治思想史─十七~十九世紀』(東京大学出版会、2010年)
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