文書名
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弘前藩庁日記(国日記)
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文書名(カナ)
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ヒロサキ ハンチョウ ニッキ クニ ニッキ
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文書名(ローマ字)
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Hirosaki hancho nikki kuni nikki
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別名
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文政8年4月19日条
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別名(カナ)
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ブンセイ ハチネン シガツ ジュウクニチ ジョウ
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別名(ローマ字)
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Bunsei hachinen shigatsu jukunichi jo
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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御日記方編
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差出・作成者(カナ)
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オニッキ カタ
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差出・作成者(ローマ字)
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Onikki kata
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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文政8年(1825)4月
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作成年終
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数量
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1冊
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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30cm
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寸法(横)
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22.5cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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1825
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内容年終
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内容
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内容(カナ)
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内容(ローマ字)
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解題・説明
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市立弘前図書館に所蔵されている、弘前藩の公式藩政記録「弘前藩庁日記」(文献によっては「弘前藩日記」とも)には、国許における行政・司法・人事をはじめとする政務全般の動向を記した弘前城中での記録である「御国日記」(「国日記」とも)と、江戸における幕藩間交渉、藩主の交際、江戸留守居役の交渉、藩邸内のできごと、国許との連絡事項などを記した江戸屋敷(上屋敷)の記録である「江戸日記」の2種類がある。前者は寛文元年(1661)6月3日の4代藩主津軽信政の初入部の日から記録が開始され、元治元年(1864)年12月までの間、約3300冊が残されている。後者は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。記載期間は寛文8年(1668)5月11日の信政江戸到着に始まり、慶応4年(1868)2月晦日(30日)まで約1200冊が残されている。なお、「弘前藩庁日記」には写しや破本をどのように数えるかで文献によって冊数に差異がある。福井敏隆氏(弘前市文化財審議委員会委員長)によれば、冊数は「国日記」3308冊、「江戸日記」1226冊であるという。なお、江戸日記は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。 「弘前藩庁日記」には、藩政執行の上で先例を参照するためという目的があった(「日記役勤方之定」『新編弘前市史』資料編近世1、787号史料)。つまり、藩政執行上必要な行政文書として保管され、実用されていたのである。「御国日記」は、藩の各部署で作成されていた記録の記事が集大成されたものであり(「御国日記」天保3年6月28日条)、また「江戸日記」も同様に江戸における諸種の留書を整理したもので、したがって、史料としては二次史料として位置づけられる。 「御国日記」の記載内容は、月初めに、その月の月番である家老・用人・大目付・寺社奉行・郡奉行・町奉行・勘定奉行・物頭・青森在番の人名が列記される。日々の記事は、月日と天候が記されたあと、その日登城した家老・用人・大目付の人名が列記され、次に祭祀・仏事・行事や藩主の公的行事についての記事が記される。以下は順不同で、藩士の任免・役替え・家禄増減・家督・改名・縁組などの武士身分に関わる事項、武士のみならず町人・百姓身分にまで及ぶ賞罰記事、各方面の申し出・届け出・願い出とそれに対する対応、そして江戸からの飛脚の到着と、その飛脚がもたらした書状の内容などが記され、最後にその日の御城当番の人名が記されて終わる。「江戸日記」は、月初めに月番家老と用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、以下本文の形式は「国日記」同様である。 藩政組織には、日記記録の専門部署として、「御日記方(おにっきかた)」が設けられていた。延宝3年(1675)に定められた前出の「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録することが定められていたが、時代が下がり、行政組織で取り扱う事項が膨大となり、また御日記方でも藩庁日記以外の諸種の記録も扱う状況になると、日々それぞれの分掌から差し出される膨大な記録を藩庁日記という形にまとめ上げることが困難になり、記事内容の省略が行われたり、清書の滞りを促進させたりする措置がとられたりしている(なお、「弘前藩庁日記」については、筆者が執筆した『新編弘前市史 通史編2近世1』233~235頁の記述をもとにしている)。 本史料は文政8年(1825)4月分の「国日記」であるが、そのなかの4月19日条に江戸幕府から伝達された「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」と、それに対する弘前藩の処置が記されている。異国船打払令とは、この年2月18日に幕府が発令したもので、日本の沿岸に近づいた外国船を、国籍を問わず、国禁のキリスト教を信仰する国の船舶であるとして、一律・無差別に砲撃を加え退去させること、また外国人が上陸した場合は捕え、または殺害することもいとわないという方針を排除することを定めており、その文中に「無二念、打払を心掛(二念なく打払いを心掛け)」とあることから無二念打払令(むにねんうちはらいれい)とも、また発令時の年号をとって文政打払令(ぶんせいうちはらいれい)ともいう。 18世紀後期、日本近海に出没する外国船の数が増加する中で、江戸幕府は、寛政3年(1791)9月2日、幕府は外国船の取扱に関する法令を出し、その中で、外国船が海岸に近づいた際には、厳しい臨検を行い、拒否した場合には打ち払うこと、臨検に応じた場合には穏健に扱うが、船・船員もろとも抑留して幕府からの指令をまつことを定めた。寛政9年12月には微修正を加え、外国船が不法行為を働かない限りは穏便な処置をとるよう命じている。文化3年(1806)正月26日にこれが改められ、外国船に対する対応は穏便を旨とし、漂流船には薪水を給与するよう命じた。これが文化の薪水給与令(しんすいきゅうよれい)と呼ばれるものである。この法令は、翌年に発生したロシア船によるエトロフ島侵攻事件をうけて同年12月にロシア船に限って打ち払いを命じることに変更されたが、実際には一度も適用されることなく、その他の事例、例えば同5年に長崎へオランダ船と偽り入港し、狼藉を働いたイギリス軍艦フェートン号による事件といった、幕府の海防政策にとって大きな問題が発生した際にも、薪水給与令は変更されることなく維持された。沿岸に領地を持つ諸藩は薪水給与令の趣旨に従ったが、その一方では、同法令に海防強化も定められていたため、大きな負担にもなっていた。 この段階において江戸幕府の首脳陣は、松平定信(まつだいらさだのぶ)(1758~1829)とともに「寛政の改革」を主導した松平信明(まつだいらのぶあきら)(1763~1817)をはじめとする老中が死去・引退したことに伴い、将軍徳川家斉(とくがわいえなり)(1773~1841)の側近である水野忠成(みずのただあきら)(1763~1834)を中心とする人々に世代交代していた。文政元年(1818)に勝手掛(かってがかり)老中となり、幕府財政を掌握した忠成は、幕府や大名の経済的繁栄と和合を達成することを目指しており、ゴローニン事件(文化8年、1811)以来の対露関係の緩和を大きな契機として、文政4年に蝦夷地を松前藩(まつまえはん)に還付し、弘前・盛岡両藩の軍勢の現地派兵を止め、領内の渡海口(弘前藩は三厩(みんまや))へ引き上げさせ、また大名に命じてきた江戸湾防備の体制も緩めるなどの措置を採った。 一方、19世紀にはいると、イギリス・アメリカの船団が、北太平洋において捕鯨を開始し、日本の太平洋岸に真水・食料の補給を求めて接近するようになった。なかには日本側の漁船と接触し、物資の交換やキリスト教の書籍を与えるなどの行為に及ぶ場合もあった。文政7年5月28日、イギリスの捕鯨船2隻が、常陸水戸藩領の大津浜(おおつはま)(現茨城県北茨城市大津町)沖に姿を現わし、食糧と水を求めて小舟で上陸した船員12人が捕えられ、事情聴取が行われた。この際、水戸藩を始め、近隣諸藩の兵が2000名近く出動したという。この事件は、交渉の結果、幕府側の指示で船員が6月10日に解放されたことで終局した。さらに、同年8月、薩摩(さつま)(鹿児島)藩領の宝島(たからじま)(現鹿児島県鹿児島郡十島村大字宝島)においてイギリス捕鯨船の船員が上陸、牛を略奪し、勤番の薩摩藩士に射殺される事件も発生した。 あたかもこの月に、幕府天文方(てんもんがた)兼書物奉行(しょもつぶぎょう)の高橋景保(たかはしかげやす)(1784~1829)は、外国船の接近に対し、漁民が接触してキリスト教に勧誘される恐れがあること、また諸藩がその都度ごとに派兵に及ぶのは財政困窮につながるとして、沿岸の寄港し易いところに台場を構築し、外国船が接近すれば空砲を打って脅し、岸から遠ざけるようにという趣旨の建白書を幕府に提出した。また、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)遠山景晋(とおやまかげくに(かげみち))(1764~1837)らは、海防態勢については現状の手直し程度にとどめながらも、外国船に対する処置としては無二念打ち払いを主張した。結果的に異国船打払令は遠山の強硬策にもとづいて発布されたものである。 ただし、打払令によって、幕府が好戦的になり外国と積極的に戦闘を行う方針に切り替えたわけではない。そもそも幕府が、海防を緩めたのちにこの施策を採ったのは、砲撃による民間船を威嚇することによって、外国船接近の拒否という国家の意思が国際的に徹底されることを企図したもので、これを実施することによるデメリットは、せいぜいが沿岸海運に従事する廻船の妨害と離島や遠隔地の海岸が襲われる程度のもので、深刻な報復によって国家間の対立に結びつくことはないという判断に立ったものである。また、異国船の沿岸接近を防ぐことで、海防によって負担を強いられて来た沿岸諸藩にとっては、その軽減に結びつくことにもつながり、水野忠成が企図した、幕府・大名の経済的繁栄という政策方針にも適合するものであった。 異国船打払令の発令をうけて、弘前藩では、郡奉行・勘定奉行・(弘前)町奉行の三奉行が協議し、領内における海防の状況を再点検し、以下の処置をとるよう上申し、承認されている。 ・海岸10か所の大筒の設置場所(大間越(おおまごし)・深浦・金井ヶ沢・鰺ヶ沢(あじがさわ)・十三・小泊(こどまり)・龍浜崎(たっぴざき)・鷹野崎(たかのざき)・蟹田(かにた)・青森)について、人員・武器の増強は不要。 ・法令の趣旨を三厩(みんまや)詰人数、浦々の町奉行・湊目付に伝達すること。また、大筒設置場所の大筒掛役や廻船の上乗・下乗役人に対しては勘定奉行より伝達すること。 ・異国船が海岸に接近した場合、その場に居合わせた海岸の大筒役、漁船、海岸周辺の者は直ちに村役人・町役人に知らせ、村役人・町役人は近隣の大筒方に通報すること。例えば、津軽半島先端にあり、津軽海峡に面している龍浜崎の大筒方が発砲した場合、周辺の大筒場所に人夫を使いに出して伝え、さらに徐々に申し送るようにする。この処置については、浦々の町奉行、在方に対しては郡奉行が周知させ、大筒役に対しては勘定奉行から伝えること。 ・法令を記した建札(高札)は、大間越から野内(のない)までの海岸の八浦と、在方の金井ヶ沢・小泊(こどまり)・平舘(たいらだて)・油川(あぶらかわ)に立てる。八浦はそれぞれの町奉行、在方は郡奉行より命じること。建札の形状・作成は作事奉行に命じること。 ・上記の趣旨については黒石(くろいし)にも伝達すること。 天保8年(1837)6月28日、のちにアメリカ船モリソン号であったことが明らかになる国籍不明の外国船が江戸湾への侵入を企て、幕府の浦賀奉行所(うらがぶぎょうしょ)が砲撃を加えたことにより退去した。翌年6月になって、オランダからの通報でこの船が漂流民の送還と通商を求めて渡来したことが判明した。これを契機として、水野忠成の死後、勝手掛老中となった老中水野忠邦(みずのただくに)(1794~1851)が、評定所に打払令の是非について諮問するなど、海防政策の再検討が行われた。さらに1840〜42年にかけて、イギリスと清との間でアヘン戦争が勃発し、清が敗北したとの報が日本にももたらされ、さらに天保13年(1842)6月、オランダ商館長より、マカオのイギリス官吏から、イギリス艦隊がアヘン戦争終結後日本に来航し、開国を強要するとの計画があると聞いたという情報が伝えられた。幕府はこれらの動きから、打払令継続が西洋諸国の大規模な報復を招く恐れがあると判断し、それを予防するために、同年7月24日に打払令を廃止して、文化の薪水給与令の趣旨に復帰し、渡来の外国船には事情を尋ねたうえで、すみやかに帰帆することを促し、必要に応じて食料・水を給与することを定めた。これを天保の薪水給与令という。(千葉一大) 【参考文献】 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 北島正元『水野忠邦』(吉川弘文館、1969年) 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年) 松平(上野)秀治「記録」(『日本古文書学講座 第6巻 近世編Ⅰ』雄山閣出版、1979年) 羽賀与七郎「弘前藩庁日記」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年) 原剛『幕末海防史の研究─全国的に見た日本の海防態勢─』(名著出版、1988年) 賀川隆行『日本の歴史 ⑯ 崩れゆく鎖国』(集英社、1992年) 井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙編『日本歴史大系普及版11 幕藩体制の展開と動揺 下』(山川出版社、1996年) 藤田覚『近世後期政治史と対外関係』(東京大学出版会、2005年)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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通史2-165
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管理記号
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異国船打払令への対応を記した国日記記事(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第三節)
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