文書名
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漆木家傳書
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文書名(カナ)
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ウルシギ カデンショ
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文書名(ローマ字)
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Urushigi kadensyo
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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成田五右衛門
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差出・作成者(カナ)
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ナリタ ゴエモン
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差出・作成者(ローマ字)
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Narita Goemon
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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寛政13年(1801)
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作成年終
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数量
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1冊(22丁)
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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24.5cm
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寸法(横)
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17cm
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材質
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形態に関する注記
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別紙(16×56.5、12×50(本文))
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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内容年終
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内容
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成田五右衛門累代之家伝書か。漆木植仕立之由来種蒔・培養方法等
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内容(カナ)
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ナリタ ゴエモン ルイダイ ノ カデンショ カ. ウルシギ ウエ シタテ ノ ユライ タネマキ バイヨウ ホウホウ ナド
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内容(ローマ字)
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Narita Goemon ruidai no kadensyo ka. urushigi ue shitate no yurai tanemaki baiyo hoho nado
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解題・説明
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津軽の伝統工芸として「津軽塗」は余りにも有名である。日々の暮らしのなかで、見た目に美しく、使っても丈夫な津軽塗を、何らかの形で愛用しているご家庭も多いだろう。本格的に弘前藩に塗り物の技術が導入され、生産が盛んになっていくのは元禄年間(1688~1704)である。残念ながら、藩政期の津軽塗(江戸期には「御国塗り」等の名称であった)は献上・贈答品としての記録は残るものの、残された作例から、領内ではごく限られた範囲にしか流通していなかったと考えられており、また、領外での販売も史料的に明らかにすることができないため、特産品として藩の財政に寄与し得たものかどうかを明らかにすることはできない。 いずれにしろ、領内において津軽塗の生産が可能だったのは、卓越した技術を持つ職人の存在と、原料となり得る漆の栽培があってこそのものであったと考えられる。漆はその実が蝋燭の原料となり、また樹液である生漆(きうるし)が塗り物の原料として用いられるため、江戸時代に商品作物として重視された。津軽において本格的に漆の栽培が行われるようになったのは江戸時代初期、寛永年間(1624~1644)のことであるとされている。寛永元年(1624)、樹木村(じゅもくむら)(現弘前市樹木1~5丁目)の成田宗全が漆木の栽培を藩に上申、年間1万本、5年間で5万本の植樹を願い出て許可されたという。同7年には、大浦城(おおうらじょう)(現弘前市賀田・五代)・藤崎城(ふじさきじょう)(現南津軽郡藤崎町藤崎)・堀越城(ほりこしじょう)(現弘前市堀越字川合・柏田)といった城跡や、石川(現弘前市石川)・一ノ渡(いちのわたり)(現弘前市一野渡)・横内(よこうち)(現青森市横内)・浪岡(なみおか)(現青森市浪岡大字浪岡)・桑野木田(くわのきだ)(現つがる市柏桑野木田)・赤石(現西津軽郡鰺ヶ沢町赤石町)・尾崎(おさき)(現平川市尾崎)・唐竹(からだけ)(現平川市唐竹)・乳井(にゅうい)(現弘前市乳井)・館野越(たてのこし)(現北津軽郡板柳町大字館野越)各村に5万100本を植え付けたという。正保年間(1644~1648)まで盛んに植え付けがなされたが、寛文年間(1661~1673)に衰え、貞享年間(168~1688)には漆木を伐採する者も現れたという。 貞享検地において作成された検地帳には漆林・漆畑が記載されており、それらによれば、当時領内において32万4523本の漆木が栽培されていたという。地域的には横内組・大鰐組・駒越組といった面積の広い山間部で多く栽培されており、岩木川や平川流域の水田地帯には少ない。この本数はその後宝暦年間にかけてあまり変動がないが、文化2年(1805)5月には20万1301本に急減している。翌月17日条の「弘前藩庁日記(国日記)」では14万1558本という数字もみられる。この背景として、まず、漆栽培に重税が課せられるようになって生産意欲の低下に結びついたことが想定されている。藩はこの時期しばしば栽培奨励策を講じるようになっているが、それは、奨励策を頻繁に打たなければ生産に結びつかなかったという何よりの証拠でもある。加えて、大きな被害をもたらした天明の大飢饉による領内の荒廃によって、漆栽培が顧みられなくなったことも挙げることができるだろう。 「弘前藩庁日記(国日記)」寛政13年(1801)2月9日条には、藩士山口彦左衛門が、衰えていた漆生産の振興のため、①漆木にかけていた役銭を新規の植樹から免除、②実漆は栽培者に下げ渡し、藩が必要な分を買い上げるという施策を藩に上申した。新たに植え付ける漆木の利益は領民に与える一方で、既存分の役銭を確実に徴収することも狙った提案である。 本書の著者成田五右衛門は成田宗全の子孫であり、代々漆栽培を家業としてきた。本書の大まかな内容は、①漆の利点と栽培の奨励について、②種まきと畑の準備、③栽培・経営論、④漆への鉋の入れ方、⑤漆掻きにあたる掻き子の管理、⑥作業の能率を図る方法、⑦漆木から漆の産出量を推し量る方法、⑧水漆の色から漆山の土地の状態を知る方法、というもので、商品作物である漆栽培の経営と技術について、具体的方法と実践にもとづいて論じたものである。福井敏隆氏は、領内の漆木栽培奨励策の上申が藩に対してなされた寛政13年2月前後に本書が成立し、藩が本書を手引きとして利用し、漆木栽培を奨励したものという考えを示している。藩が漆木栽培を奨励した結果、文政元年(1818)段階で漆木の数が143万498本に急増し、地域的には後潟・常盤・田舎館・大光寺各組を除く領内全体で大きく増加し、特に浪岡組・猿賀組・尾崎組・大鰐組などでは10万本以上が栽培されるようになっていた。 本書は、弘前藩士斎藤幸右衛門による写本であるが、このほかに、弘前藩士三橋左十郎定軌(みつはしさじゅうろうさだのり)が文化年間(1804~1817)の後半に編纂した「要記秘鑑(ようきひかん)」第十九「漆方并植付物之部」に、文化5年12月に書写したほぼ同内容のものが収録されている(当館所蔵)。なお、翻刻も、福井氏がその校訂と解題執筆を担当し、『日本農書全集 46 特産2 梨栄増育秘鑑・紀州蜜柑伝来記・漆木家伝書』(社団法人農山漁村文化協会、1994年)に収められて刊行されている。(千葉一大) 【参考文献】 『津軽の伝統工芸 津軽塗』(弘前市立博物館、1981年) 福井敏隆「解題」(『日本農書全集 46 特産2 梨栄増育秘鑑・紀州蜜柑伝来記・漆木家伝書』社団法人農山漁村文化協会、1994年、213~235頁)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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弘前図書館
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史2-169
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管理記号
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YK617-4
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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資料分類(大分類)
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八木橋文庫
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資料分類(中分類)
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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manifest.jsonへのURL
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参照データ
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関連ページURL
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関連画像URL
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自治体史掲載
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漆木家伝書(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第三節)
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出版物・関連資料
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翻訳元の言語
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権利関係・利用条件
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原資料の利用条件
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権利関係・利用条件に関する注記
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緯度・経度・高度に関する注記
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DOI
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既刊目録名
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デジタル化の経緯に関する注記
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