文書名
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寛政律
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文書名(カナ)
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カンセイリツ
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文書名(ローマ字)
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Kanseiritsu
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別名
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刑律
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別名(カナ)
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ケイリツ
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別名(ローマ字)
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Keiritsu
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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差出・作成者(カナ)
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差出・作成者(ローマ字)
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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慶應3年(1867)
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作成年終
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数量
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61丁
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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24cm
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寸法(横)
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16.5cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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牧野左次郎(恒貞) 赤石安右衛門(行建) 菊池寛司(正礼) 伴才助(建伊) 松田常蔵(正卿)
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関連する人物・団体(カナ)
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マキノ サジロウ ツネサダ アカイシ ヤスエモン ユキタケ キクチ カンジ マサノリ バン サイスケ タケタダ マツダ ツネゾウ マサアキ
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関連する人物・団体(ローマ字)
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Makino Sajiro Tsunesada Akaishi Yasuemon Yukitake Kikuchi Kanji Masanori Ban Saisuke Taketada Matsuda Tsunezo Masaaki
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内容年
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内容年終
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内容
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寛政律は寛政3年牧野左次郎総裁、赤石安右衛門、菊池寛司、伴才助、松田常蔵等主として編纂し寛政9年(1797)に成る。本書は文化10年頃までの補記がある。
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内容(カナ)
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カンセイリツ ワ カンセイ サンネン マキノ サジロウ ソウサイ アカイシ ヤスエモン キクチ カンジ バン サイスケ マツダ ツネゾウ ナド シュ ト シテ ヘンサン シ カンセイ クネン ニ ナル ホンショ ワ ブンカ ジュウネン ゴロ マデ ノ ホキ ガ アル
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内容(ローマ字)
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Kanseiritsu wa kansei sannen Makino Sajiro sousai Akaishi Yasuemon Kikuchi Kanji Ban Saisuke Matsuda Tsunezo nado syu to shite hensan shi kansei kunen ni naru honsyo wa bunka junen goro made no hoki ga aru
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解題・説明
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「寛政律」は、寛政9年(1797)に成立した弘前藩の藩法(はんぽう)で、刑法典にあたる。 藩法とは、戦国大名が領国支配のために制定した分国法(ぶんこくほう)の流れをくむもので、江戸時代の諸藩が、幕府の法的な規制と影響の下で、自領内に発布、施行した法令である。藩法は、大別して基本法と施行法とに分けられる。前者は立藩の精神、藩政の要綱、藩士の規律などを定めたもので、後者は行政、司法など藩政執行に必要な法規であり、村方、町方、寺社方に下した掟などがこれに含まれる。 18世紀に、幕府が「公事方御定書」を編纂すると、その影響を受け、いくつかの藩ではその司法上、刑の執行をするうえで必要な刑法典の編纂が行われた。弘前藩でも安永4年(1775)8月、「御刑罰御定」(安永律(あんえいりつ))という刑法典が編まれたが(成立経緯やその概略については同史料の解題を参照のこと)、その施行後も刑の判決は、「安永律」の条文にもとづいて下される場合と、先例を参照して判決が下る場合があって、刑の執行が「安永律」にもとづいて一本化されたわけではなかった。またその制定後、天明の大飢饉が発生し、その渦中において社会不安から犯罪が多発し「安永律」の刑罰体系では対応しきれなくなってきていたため、実情を踏まえて、より体系的な刑法典の整備が必要になった。「寛政律」編纂はそのような必要に迫られる中でなされたものである。 弘前藩では、藩主津軽信明(つがるのぶはる(のぶあきら))(1762~1791)と次代の藩主である津軽寧親(やすちか)(1765~1833)のもとで藩政改革「寛政改革」が展開された。明治前期に編まれた「津軽旧記伝(つがるきゅうきでん)」(東京大学史料編纂所蔵)五では、「下澤氏抄録」という史料を引いて、「寛政律」編纂が津軽信明の発意によるものとしている。すなわち、 先是、公未た御国に律書の全備せしものなきを、深く憂させ玉ひ、左次郎(牧野恒貞)に令せて、是を撰定させ玉ふ、左次郎数年勉強、和漢古今律書を準拠として、之を撰ひ、赤石安右衛門、菊池寛司、及松田常蔵等力を尽せしかとも、公の御在世中に成功を遂げず、寧親公御代文化七年三月に至て初て其書成れり此書の成るや、伴有助専ら担任せしといふ、題して寛政律といふ、是より以後此書を以規定せり、下澤氏抄録 とあって、その編纂には信明の意を受けて和漢の刑法書を研究した小姓組頭(のち用人、家老を歴任)牧野左次郎恒貞(まきのさじろうつねさだ)(?~1803)をはじめ、郡奉行赤石安右衛門行建(あかいしやすえもんゆきたけ)(1745~1813)・勘定奉行菊池寛司正礼(きくちかんじまさのり)(1738~1821)・戸数方松田常蔵常寄ら、寛政改革を担った実務型の藩官僚と呼ぶべき人材が編纂に携わっていたことが知られる。寛政3年(1791)6月に信明が完成を見ずに死去したのちも、次代の寧親のもとでこの事業は進められた。したがって、「寛政律」も寛政改革の施策の一つであるということができる。なお、文化7年(1810)3月に完成したのは「寛政律」ののちに編纂がなされた「文化律」で、厳密にいえば「津軽旧記伝」のこの部分の記述は誤りということになるのだが、「寛政律」編纂・施行後も、その見直しや、判例や幕府法の規定などの増補・改訂が進められた結果、「文化律」が制定されたもので、「文化律」が「寛政律」から切り離された全く独自のものであるとも言えないのである。 「寛政律」の異本である市立弘前図書館所蔵の「刑法」では、律条の末尾に「寛政九丁巳年三月 伴才助・吉沢庄太夫 参考 菊池寛司・赤石安右衛門 閲正」とあって、「寛政律」が寛政9年3月に成立したことが知られる。そして完成時の編纂主要メンバーは菊池・赤石のほか、伴才助・吉沢庄太夫であることがわかる。特に伴才助建尹(ばんさいすけたけのぶ)は、藩儒山崎蘭洲(やまさきらんしゅう)(1733~1799)の弟子として、死後『蘭洲先生遺稿(らんしゅうせんせいいこう)』の編纂を行ったことで知られているが(『蘭洲先生遺稿』解題を参照のこと)、「津軽旧記伝」七に、「小山内又右衛門筆記」を引いて、「寧親公御代、寛政年間、藩内法律書編纂せられし時、建尹主として担任せり、成るに及ひて寛政律と名つけ永く行ハるゝといふ」とあって、「寛政律」編纂完成までの中心的立場にあったとみられる。 一方、「寛政律」編纂と並行して、弘前藩では寛政3年11月に「刑罰連坐の制」、同8年2月に「隠商過料定牒」が定められており、これも刑法編纂・充実の動きの一環とみなすことができる。 「寛政律」は、11の章(大項目)、99項目、175条にわたる。冒頭に総則規定である「定例」、その後に各則がある。「定例」は、21の小項目に分かれ、27条からなる。刑罰の種類と量刑、刑事責任能力、共犯、婦人犯罪に関する規定がある。ここに規定された刑罰の種類は、大きく生命刑(鋸挽・磔・獄門・斬罪・下手人(げしにん)・死罪・火罪)、身体刑(鞭刑(べんけい)・入墨)、身分刑(非人手下(ひにんてか))、自由刑(入牢・追放・戸締)、財産刑(没収刑・贖刑)に分類することが可能である。また刑事責任能力は、70歳以上・15歳以下の者や廃疾者である場合は軽減されること、また、主犯・従犯の区別をつけ、従犯の者は主犯よりも軽い量刑が加えられること、主殺し・尊属殺人を除いて婦人は男子より寛刑を科されることなどが定められている。 各則は、「人命」・「打擲」・「盗賊」・「賄賂」・「田宅」・「倉庫」・「訴訟」・「運上」・「雑犯」・「犯姦」の10章に分かれ、78の項目、148条からなっている。各章では、次のような場合を挙げ、さらに各条において対応した刑罰を定めている。 ① 「人命」 主殺し・尊属殺人・殺人 ② 「打擲」 傷害・傷害致死 ③ 「盗賊」 強盗・窃盗・盗伐 ④ 「賄賂」 贈収賄 ⑤ 「田宅」 隠田畑・田畑の抵当・田畑横領 ⑥ 「倉庫」 年貢滞納・米銭不正借り出し ⑦ 「訴訟」 強訴・無記名の訴状・投文 ⑧ 「運上」 隠津出・隠商売 ⑨ 「雑犯」 博奕・失火・野火・犯人隠匿・牢破り・関所破り・馬札紛失・追放者の無断での立ち帰り ⑩ 「犯姦」 姦通・強姦・相対死 これら各則規定において目を引く内容としては、①主殺し・親殺しを極刑としていること、②尊属に対する犯罪は重罪であるのに比べ卑属は軽罪であること、③傷害の程度によって刑の軽重が定められていること、④盗人には入れ墨のうえ盗んだ金額によって量刑に差があること、⑤収賄を行った者は不法をした場合と法を曲げなかった場合に分け、前者の量刑を重くしたこと、⑥訴状は支配頭への提出を求め、無名の訴状・投文を禁じたことなどが挙げられる。 「寛政律」の内容全体について特徴的な点を指摘すると、中国の明朝において制定され、1397年(洪武(こうぶ)30)に最終的に整備された刑法典「明律(みんりつ)」(「大明律(だいみんりつ)」)に範を求めていることが法制史研究の上で指摘されており、加えて「公事方御定書」の影響も見られるものとなっている。「明律」に範を求めた例証をいくつか挙げるならば、まず各則の章名がすべて「明律」そのままか、あるいは対応する名称を有していること(「定例」は「明律」において「名例(みょうれい)」、「打擲」は同じく「闘殴」、「賄賂」は「受贓(じゅぞう)」、「運上」は「課程」という)、条文の多くが「明律」に対応する条文を有しており、条文そのものが「明律」の読み下し文を利用したとさえ見られるものもあることが指摘されている。一方、「寛政律」制定以前の判例が反映した条文は175条のうち数箇条のみである。また、日本的・地域的特色が強いため「明律」に対応した条文のないものにおいては、「公事方御定書」と内容の一致する条文はほとんど見られないとされるが、親族の謀殺や相対死(心中)に関する規定には、部分的にその影響を受けたとみられる箇所も存在する。 黒瀧十二郎(くろたきじゅうじろう)氏が「寛政律」施行期の判例を調査したところ、99項目のうち約70項目中の条文に対する判例が見あたらず、さらに「寛政律」の項目・条文と全く関連のない判例も多数見られることから、「安永律」の時と同様、判決は、慣習・先例を参照したものと、刑法典の条文を基準とするものの二本立てであったことが明らかにされている。刑法典としての「寛政律」は、多くの文献を参照して作成されたものではあったが、黒瀧氏の分析を踏まえれば、当時弘前領で発生していた犯罪の実情にあまり適合したものではなく、法的な実効性という側面からみると、かなり弱いものであったとみることができるのではないか。 「寛政律」については、蛯名庸一氏・黒瀧十二郎氏の詳細な分析があり、また橋本久氏は「寛政律」の諸本を検討し紹介しているので、それぞれを参照されたい。(千葉一大) 【参考文献】 蛯名庸一「弘前藩御刑法牒(寛政律)」(『弘前大学國史研究』15・16合併号、1959年) 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』中巻(陸奥新報社、1970年) 山本大「藩法」(『日本古文書学講座 第6巻 近世編Ⅰ』雄山閣出版、1979年) 橋本久「弘前藩 御刑法牒」(京都大学日本法史研究会編『藩法史料集成』創文社、1980年) 橋本久「弘前藩の刑法典 寛政律」(『大阪経済法科大学法科論集』7・8・11・13・14・15・17・19・21・22・23・27・29・31、1982~1993年) 黒瀧十二郎『青森県の文化シリーズ 23 弘前藩の犯罪と刑罰』(北方新社、1984年) 牧英正・藤原明久編『日本法制史』(青林書院、1993年) 黒瀧十二郎『日本近世の法と民衆』(高科書店、1994年)
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解題・説明(英語)
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所蔵機関
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史2-181
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管理記号
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甲5-85
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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津軽古図書保存会文書
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自治体史掲載
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寛政律(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第三節)
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