文書名
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御刑法牒(文化御改御刑法定例)
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文書名(カナ)
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ゴケイホウ チョウ ブンカ オンアラタメ ゴケイホウ テイレイ
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文書名(ローマ字)
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Gokeiho cho bunka on'aratame gokeiho teirei
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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三橋左十郎(定軌)編
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差出・作成者(カナ)
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ミツハシ サジュウロウ サダノリ
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差出・作成者(ローマ字)
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Mitsuhashi Sajuro Sadanori
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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作成年終
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数量
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1冊(42丁,67丁)
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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23cm
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寸法(横)
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16cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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内容年終
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内容
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儀式法令作法その他藩政ノ事例を類別して年代順に編纂したもの
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内容(カナ)
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ギシキ ホウレイ サホウ ソノタ ハンセイ ノ ジレイ オ ルイベツ シテ ネンダイ ジュン ニ ヘンサン シタ モノ
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内容(ローマ字)
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Gishiki horei saho sonota hansei no jirei o ruibetsu shite nendai jun ni hensan shita mono
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解題・説明
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「文化律」は、弘前藩における藩法のひとつで、江戸時代後期、文化年間(1804~1818)に成立した刑法典である。ここでは、弘前藩の藩政にかかわる記事を集成した「要記秘鑑」第三十二に収められたものを掲載している。 藩法とは、広義には、江戸時代、藩で施行された幕府発令の法、藩が発令した法の両者を含む法全体のことを指し、狭義では、藩がその領分支配のため制定した法をいう。通常では、狭義の意味で用いられることが多い。この場合、藩の側では、幕府法を「公儀御法度(こうぎごはっと)」「公儀御触書(こうぎおふれがき)」「公儀御制法(こうぎごせいほう)」「江戸之(御)法度(えどのごはっと)」などと称し、藩法は「自分法度(じぶんはっと)」「家法(かほう)」「国法(こくほう)」「御家之法度(おいえのはっと)」などと呼ぶことが多かった。 江戸幕府は大名を統制下に置き、寛永(かんえい)12年(1635)の「武家諸法度(ぶけしょはっと)」で、「万事江戸之法度の如く、国々所々に於てこれを遵行すべき事」として、幕府法の遵守を大名に求めている。一方で、幕府は大名に対し大幅な「自分仕置権(じぶんしおきけん)」(領分支配権)を認めていた。幕府による藩領を含む全国を対象とした法令は、幕府の重要施策である宗教、外交、国防、貿易、農村などの統制と、全国統一的でなければ支障をきたす金銀通貨、度量衡(どりょうこう)、宿駅駄賃(しゅくえきだちん)などに関するものに限られた。また、大名の領内における徴税についても干渉しなかった。司法面でも、元禄(げんろく)10年(1697)、「自分仕置令(じぶんしおきれい)」を発令し、大名の領分だけで完結する事件については、重罪でも大名が裁判を行い審理や刑を科すことが可能とする一方、他支配と関連する事件は月番老中にうかがい出て管轄を幕府に移譲すること、刑罰は幕府刑法に準ずることなどを定め、大名の司法権をその支配の及ぶ範囲に限った。 18世紀半ば、江戸幕府が刑法典「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」を制定(寛保(かんぽう)2年、1742)すると、諸藩においても、刑法典の編纂が盛んに行われた。弘前藩もその例外ではなく、安永4年(1775)に「御刑罰御定(おけいばつおんさだめ)」(「安永律(あんえいりつ)」)を、ついで、寛政9年(1797)3月にはより整備された刑法典である「寛政律(かんせいりつ)」を編纂した。しかし、十全に機能しなかったとみられている「寛政律」により実効性をもたせるとともに、天明の大飢饉後、農村復興に力を注ぎ、他領から多数の農民を移住させた藩が領内支配を一層強化する必要性から、新たな刑法典を整備する必要に迫られたと考えられている。 文化4年(1807)3月29日に刑法調方(けいほうしらべかた)として、町奉行や郡奉行などの職にある藤田権左衛門・町田助太郎・野呂助左衛門・桜庭清次郎・吉沢庄太夫・葛西善大・高屋吾助が任命された。同年4月18日にはこれに加えて、刑法調方御用掛(けいほうしらべかたごようがかり)として竹内衛士・須藤五郎太夫が加えられている。彼らは毎月2・7・9のつく日の八つ時(大凡午後2時ごろ)から弘前城本丸御殿の鷺之間(さぎのま)または竹之間において、部屋の中に屏風で囲いを設けた中で多く編纂作業を行い(「弘前藩庁日記(国日記)」文化4年4月6日条)、文化7年3月に至り改訂刑法典の編纂を完成させた。これが「文化律」である。 「文化律」の構成をみると、初めに「名目(みょうもく)」と題する総則的規定を36項目設け、その後「御刑法捌(ごけいほうさばき)」として各則を112項目置いている。「寛政律」は、中国の明朝が1397年(洪武(こうぶ)30)に最終的に整備した刑法典「明律(みんりつ)」(「大明律(だいみんりつ)」)に範を求めており、その影響から各則的規定に、「人命」「打擲」「盗賊」「賄賂」「田宅」「倉庫」「訴訟」「運上」「雑犯」「犯姦」という章名が付せられていたが、それらはすべて削除されている。 一方、項目には注が付されており、「寛政の御例」とあるのは「寛政律」をそのまま採用したところ、「寛政の御例斟酌(しんしゃく)」は「寛政律」を基礎に変更を加えたところ、「公事方御定書」を採用したところは「御定書(おさだめがき)」、「御定書斟酌(おさだめがきしんしゃく)」は「公事方御定書」を参考にしたところをそれぞれ示している。これらの注から明らかになるのは、「文化律」の基礎にあるのは「寛政律」であるということであり、「寛政の御例」が100条、「御例斟酌」を合せると130条ほどが採用されていること、一方、「公事方御定書」の内容も多く取り入れられており、「御定書」が55条、斟酌したものを加えると140条程度に上ること、さらに、「安永律」を採用している箇所、「安永律」と「寛政律」の両方を斟酌したもの、文化年間の判例を組入れたものもみられるという点である。 「文化律」は、条文の表記法なども「公事方御定書」の体裁が踏まえられていることから、幕府法への同化が進んだと評価されている。しかし、内容に踏み込めば、従来弘前藩で行われてきた刑法典をすべて捨象して幕府法に全面的な傾斜を遂げたわけではない。「明律」を基礎とする「寛政律」が弘前藩の実情に合わなかったため、また「寛政律」が時勢に合わなかったから「文化律」がとってかわったというものでもなく、「寛政律」を改正して「明律」の色を薄めつつ、幕府の「公事方御定書」、過去の判例なども取り入れながら、藩の実情に適合させ支配を強めるべく「文化律」が生まれたと考えるべきだろう。 「文化律」の内容的な特色としては、次のものを挙げることができる。 ① これまで処罰を戸〆(とじめ)(庶民を対象に、自宅に籠居させた刑罰)としてきた罪において、戸〆を命じるか、過料(かりょう)(銭の納付を科す刑罰)納付を命じるか、場合によって選択できるようにした。たとえば、5段階に分かれていた戸〆に、戸〆5日=過料600文から戸〆30日=1貫800文に至るまで、それぞれ対応した過料の額を設定している。特に村方については戸〆ではなく過料納付でよいとした。一方、弘前城下や九浦(くうら)(青森・鰺ヶ沢(あじがさわ)・深浦(ふかうら)・十三(じゅうさん)・蟹田(かにた)・今別(いまべつ)の各湊と、碇ヶ関(いかりがせき)・大間越(おおまごし)・野内(のない)の各領境番所)の周辺域には過料ではなく戸〆を科すべきとし、村方においても郷士(ごうし)・手代(てだい)など身分のある者には戸〆を命じることを許容している。 ② 「公事方御定書」を参考に、拷問を行うことができる場合を限定した。その対象者は、殺人・放火・強盗・文書偽造の罪において証拠が明白であるのに白状しない者、共犯者に白状するものがあったのに白状しない者、取り調べの際余罪が明らかになりその咎で死刑となる者である。 ③ 田畑の質入れ、隠田畑(かくしでんばた)、隠津出(かくしつだし)、売買や貸借関係など、経済的な面についての規定が増加している。 ④ 重罪の処罰の量刑が、「公事方御定書」の規定を参照するなどして、重くなっていること。例えば、盗賊の処罰は、場合を分けて詳細な規定が設けられ、また「公事方御定書」を斟酌して、体の不自由な者を殺して所持品を奪った者は引廻しの上獄門、盗みのみの犯行は敲(たたき)30・10里四方追放であるが、盗難額が多ければ盗賊の刑より2段階重く罪を科すことを定めている。また、新たに、主人の親類を殺した者は獄門に処すことになった。辻斬りの犯行に及んだ者は「公事方御定書」では死罪であったが、「文化律」では引廻しの上獄門とされ重刑が科された。不義密通を犯した男女は「寛政律」では鞭30としていたのであるが、「公事方御定書」に基づいて死罪とされた。 黒瀧十二郎氏が、「文化律」条文に対照できる「弘前藩庁日記(国日記)」中に見える判例を分析したところ、「文化律」は「寛政律」に比較して綿密に判決に適用されたとしている。一方、「文化律」施行下にあっても、「安永律」や「寛政律」の場合と同様に、刑法典の条文にもとづく判決の申渡しと、それまでの慣習・先例を参照しての判決の申渡しの二本立てであったことも指摘しており、弘前藩では、刑法典が整備されても、その規定のみにこだわらない法の運用がなされていたといえる。 なお、「文化律」は制定直後から改正の動きが生じていた。「弘前藩庁日記(国日記)」文化7年5月7日条に、家老・用人・四奉行が列席して本丸御殿の山水之間(さんすいのま)で「御刑法評議」が行われたといい、それ以降、尾太銅鉛山・湯野沢鉛山(現青森県中津軽郡西目屋村(にしめやむら))における労役刑に関して、また盗みの程度によって量刑に軽重をつけることについての評議がなされたことが「弘前藩庁日記(国日記)」にみえる。さらに、文化13年(1816)3月24日から4月2日にかけて「御刑法帳会読(かいどく)」が行われたことが見える。「文化律」の内容・意味を研究し、論議を行ったことを示す記事で、改正に向けての作業の一環とも見ることができるものである。文政13年(1830)、黒瀧藤太(くろたきとうた)が「文化律」改正の藩命を受け江戸へ登り、関係機関へ出向くなど、本格的に改正に向けての作業が進められたことがわかる。ただ、実際に「文化律」の改正をするには至らなかった。 本史料を収める「要記秘鑑」についても簡単に紹介しておく。同書は文化年間に用人を勤めた三橋左十郎定軌(みつはしさじゅうろうさだのり)によって編纂されたもので、藩政全般にわたる記事が網羅的に分類されて記録されており、藩の諸制度や藩政史研究の上で貴重な文献となっている。惜しむらくは、現在我々が見ることができるのが、市立弘前図書館に所蔵されている35巻中22冊のみで、欠本が存在するということである。弘前城下に関する記事を集めた「町之部」が『津軽近世史料1 弘前城下史料 上』(津軽近世史料刊行会編集・長谷川成一編、北方新社、1986年)に翻刻されている。(千葉一大) 【参考文献】 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 橋本久「弘前藩 御刑法牒」(京都大学日本法史研究会編『藩法史料集成』創文社、1980年) 黒瀧十二郎『青森県の文化シリーズ23 津軽藩の犯罪と刑罰』(北方新社、1984年) 黒瀧十二郎『日本近世の法と民衆』(高科書店、1994年)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史2-182
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管理記号
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KK210.9ヨウ-32
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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資料分類(大分類)
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一般郷土資料
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資料分類(中分類)
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要記秘鑑
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資料分類(小分類)
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第32
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文化財情報
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自治体史掲載
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文化律(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第三節)
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