解題・説明
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本史料は画帖仕立てで、題簽(だいせん)に「蓬か嶋」とある。蓬が島(よもぎがしま)とは、中国の神仙思想において、山東半島(さんとうはんとう)の東方海上にあって、不老不死の薬を持った仙人が住むという蓬莱山(ほうらいさん)のことをいう。一方、山東半島の東という位置関係から日本の異称としても用いられてきた。もう一つ、蓬莱山をかたどり、その上に松竹梅や鶴亀、翁と媼といった縁起物を飾り祝儀に用いた「島台(しまだい)」の別名でもある(『日本国語大辞典』第二版)。 この画帖は、元弘前藩士の佐野楽翁(さのらくおう)(1838~1923)という人物の「八佚の賀」、すなわち数えで80歳の祝いに寄せられた歌や絵、祝辞・祝電や、家族の写真などを貼り混ぜてまとめたもので、恐らく祝い事にかけて「蓬が嶋」という題が付けられたのであろう。 佐野楽翁は、『弘前藩記事』(別稿参照)を編纂した楠美大素(くすみたいそ)の次男で、諱を知方、幼名を菅次郎、後に吉郎兵衛と称した。嘉永5年(1852)に用人の佐野茂助正縄の養子となり、のちにその家を継いだ。慶応3年(1867)銃隊長として京都守衛に赴き、翌年の鳥羽伏見の戦い、ついで庄内藩攻めにも従軍した。 楽翁は安政元年(1854)から歌道を、また同4年からは実父楠美大素から琵琶を弾じながら『平家物語』を語る平曲(へいきょく)を学びはじめ、のち兄の楠美晩翠(くすみばんすい)からも教えを受けた。明治21年(1888)には平曲の秘伝を伝授されている。門弟には長男の龍之進(熙)・次男盈之進・三男倉之丞がいるが、龍之進は若くして病死し、次・三男は戦死したため、大成したのは長勝寺の住職を務めた山口彰真のみであった。 一方、楽翁は青森リンゴの生産に初期から携わった人物でもある。明治4年(1871)に野里村(のざとむら)(現五所川原市大字野里)に帰農した楽翁は、同9年にリンゴの苗木400本、その他の果樹苗木100本の配布を受け、栽培を始めた。楽翁はリンゴ栽培に活路を見いだし、明治11年に野里の土地を売却し、弘前にリンゴ園を開いた。津軽にリンゴの接ぎ木法が伝わったのは、楽翁が東京から植木師を招いて技術を広めたことに依るところが大きい。 この画帖には、弘前城下のある場所の安政年間(1854-59)の様子を描いたとされる「安政ノ度鏡ノ池春景」という絵がある。末尾の大正6年(1917)6月付の楽翁による奥書によれば、原画を描いたのは竹谷水魚庵という宗匠(そうしょう)で「写しツヽ帖附す」とある。池の周囲に桜と松が植えられ、池越しには近くに大円寺(だいえんじ)の五重塔(現最勝院(さいしょういん)五重塔(ごじゅうのとう))、その向こうには岩木山の雄大な眺望があり、水面に映る岩木山の姿がある。この景観は近世の弘前城下に存在したが、近代初期に失われてしまったものである。 弘前城下、現在の相良町と新寺町の間、弘前大学の本町キャンパスの南側、医学部附属病院の第一病棟や医学部の体育館、野球場(南塘町(なんとうちょう)グランド)などがある位置に、慶長19年(1614)、人夫1万人を動員して、寺沢川から水を引き入れ、溜池が作られた(「津軽一統志」。なお「津軽徧覧日記(つがるへんらんにっき)」のように慶長18年築造とする史料もある)。南溜池(みなみためいけ)と呼ばれるこの池は、のちに池に映る岩木山の姿を絶景と褒め称えた文人墨客たちから、鏡ヶ池(かがみがいけ)と称されるようにもなっていった。 南溜池は、弘前城跡から南に約600メートルに位置し、長勝寺構と共に弘前城の南方備えを固める軍事的な目的を持っていたと考えられている。寛永末期(17世紀半ば)頃の「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)によると、この時期の南溜池は、南北に延びる土手が92間(165.6メートル)、東西の長さが300間(540メートル)という大きさで、深さが東側で7尺から8尺(2.1~2.4メートル)、西側が3尺から4尺(0.9~1.2メートル)あった。東側と南側には町割がなく、溜池の北側には、長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)から土塁が伸びていて、一体となった城下防禦のための軍事施設としての構想がみてとれる。慶安3年(1650)に、溜池南方に寺院街(新寺町)が置かれ、さらに溜池東側に町割りがなされると、城下防禦の最前線としての役割を持たせられていた南溜池の持つ役割や、池とその周辺の景観は変化するようになる。 「弘前藩庁日記(国日記)」文化3年(1806)3月11日条によれば、南溜池の補修を行う目的が「下在用水不足ニ而、近来打続渇水ニ及候」ためとある。廃藩前後の弘前城下の状況を描いた「士族在籍引越之際地図並官社学商現在図」の記載によれば、明治4年(1871)まで南溜池は、現在の北津軽郡板柳町(いたやなぎまち)と鶴田町(つるたまち)にあたる赤田組(あかだぐみ)の灌漑用水を確保するための貯水池としての役割をもっていた。農村部への灌漑用水の貯水・供給が南溜池の重要な役割となっていたのである。 一方、弘前城下の人々にとって南溜池は多様な側面を持つ場所だった。「安政ノ度鏡ノ池春景」にも描かれた景勝地としての側面は、寛政8年(1796)に弘前に来遊した菅江真澄(すがえますみ)の紀行文『つがろのおく』における南溜池の言及にも見て取れる。真澄は南溜池が「鏡の池」と呼ばれていることや、水が枯れて池としての景観を失っているが、橋がところどころに架けられていて、風情のある場所であるから、桜の盛んな頃には格別だろうと書き残している(『菅江真澄全集』第三巻、未来社、1978年、62頁)。このような意識は、弘前城下が発展し、南溜池が城下の中に取り込まれたことによってもたらされたものであった。夏は納涼や水浴、花火などの娯楽も行われる一方で、藩がたびたびこれらに禁令を出し規制を加えていたことが、「弘前藩庁日記(国日記)」に記されている(文化5年閏6月20日・文化10年2月5日・文政5年5月28日各日条など)。これと対照的に、宝永3年(1706)、池から3、4尺ほどのゴミがすくい上げられ(「弘前藩庁日記(国日記)」享保15年9月22日条)、11月にはゴミ投棄を禁じる触書が出されるなど(「弘前藩庁日記(国日記)」同年11月9日・同15日条)、城下住民が池にゴミ投棄をし、それに対して藩がたびたび禁令を出すという、景勝地らしからぬことも繰り返されている。さらには、雨乞い等の祈祷の場(「平山日記」「永禄日記」享保10年条)、魚鳥の狩猟を禁じた殺生禁断の地(「弘前藩庁日記(国日記)」元禄16年2月3日・享保19年3月7日・文化4年8月21日条など)、織座の所在地(「津軽旧記」十七、天保元年7月10日条)、幕末期には浚渫し直して家中の水練稽古の場(「津軽旧記」廿一、安政5年8月条、同廿二、安政6年6月・7月28日条)となるなど、南溜池周辺は軍事・経済・信仰・生活の多様な役割を併せ持つ場として利用されていた。 明治4年(1871)の廃藩置県によって溜池の維持管理を行ってきた弘前藩が消滅すると、南溜池の水は涸れ、干潟(ひがた)と化した。さらに畑などとして開墾が行われ、池はその姿を消した。明治11年(1878)には溜池の跡地が、東奥義塾(とうおうぎじゅく)や小学校の学田(収益で学校の経営を賄うための田畑)として貸与されている(「南溜池学田絵図」弘前市立博物館蔵)。加えて弘前の都市化が進んだことにより、現在では同地に景勝地としての面影を求めることは難しくなっている。ただ、昭和52年(1977)8月に津軽で大水害が発生した際には、溜池の跡地に水が流れ込んで偶然池が復活し、雨がやんだ後には岩木山の姿が水面に映っていたという。人々の暮らしに甚大な被害を及ぼした水害によって引き起こされたもので喜ばしくないことではあるが、「土地が持っている過去の記憶」が示されたということにはなるのだろうか。 南溜池は、弘前城及び長勝寺構と共に、昭和27年(1952)3月29日に、「弘前城跡」(現「津軽氏城跡」)として国の史跡指定を受けている。 なお、南溜池に関する諸史料を集成し、その果たした役割についての論考を加えたものに、弘前市教育委員会の発行した『南溜池―史資料と考察―』(1989年)がある。南溜池を語る上では必携の優れた内容を持つ文献であり、関心のある方の一読を是非お勧めしたい。(千葉一大) 【参考文献】 荒井清明「鏡ヶ池」(『弘前今昔』北方新社、1985年、24~26頁) 『南溜池―史資料と考察―』(弘前市教育委員会、1989年) 長谷川成一『失われた景観 名所が語る江戸時代』(吉川弘文館、1996年) 鈴木元子『平家詞曲相伝の家 弘前藩士楠美家の人びと』(北の街社、1999年) 成田拓未「佐野楽翁」(東奥日報社編集・発行『青森県人名事典』2002年、316頁) 市毛幹幸「南溜池 軍事的性格薄れ 憩いの地に」(長谷川成一監修『弘前城築城四百年 城・町・人の歴史万華鏡』清文堂出版、2011年、16~21頁) 三上幸子「弘前市立博物館館蔵品紹介№6 百川学庵筆 鏡池春景之図」(弘前市立博物館ホームページ、2020年1月20日閲覧) 「弘前の文化財 国指定文化財 津軽氏城跡」(弘前市ホームページ、2020年1月20日閲覧)
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