文書名
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海岸村々併八浦民兵一件
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文書名(カナ)
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カイガン ムラムラ ナラビ ハチウラ ミンペイ イッケン
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文書名(ローマ字)
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Kaigan muramura narabi hachiura minpei ikken
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別名
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嘉永7年 松前方
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別名(カナ)
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カエイ シチネン マツマエ カタ
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別名(ローマ字)
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Kaei shichinen matsumae kata
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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差出・作成者(カナ)
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差出・作成者(ローマ字)
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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嘉永7年(1854)
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作成年終
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数量
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1冊(130丁)
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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24cm
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寸法(横)
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17cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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内容年終
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内容
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異国船渡来非常の際防禦の手順につき海岸筋奉行代官よりの意見書及それについての指図書一件
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内容(カナ)
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イコクセン トライ ヒジョウ ノ サイ ボウギョ ノ テジュン ニ ツキ カイガン スジ ブギョウ ダイカン ヨリ ノ イケンショ オヨビ ソレ ニ ツイテ ノ サシズ ショ イッケン
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内容(ローマ字)
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Ikokusen torai hijo no sai bogyo no tejun ni tsuki kaigan suji bugyo daikan yori no ikensyo oyobi sore ni tsuite no sashizu syo ikken
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解題・説明
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天保5年(1834)6月に1艘の外国船が龍浜崎(たつはまざき)(竜飛崎(たっぴざき)、現東津軽郡外ヶ浜町(そとはままち)三厩龍浜(みんまやたつはま))・平舘(たいらだて)(現東津軽郡外ヶ浜町平舘)・袰月(ほろづき)(現東津軽郡今別町袰月)沖に現れ、袰月海岸などに上陸し、さらに弘化4年(1847)3月には1艘のアメリカの捕鯨船が陸奥湾に出現して、数名が平舘に上陸、翌嘉永元年3月にも、同国捕鯨船が5艘、津軽半島北部に現れ、宇鉄(うてつ)(現東津軽郡外ヶ浜町三厩元宇鉄・上宇鉄)に上陸した(別項「異国人物」参照のこと)。 これらの事件を受け、弘前藩では、このような外国船接近への対処を強化するために、銃砲術の装備を洋式に転換し、弘化2年(1845)に関流の砲術家篠崎進重秀を高島流(たかしまりゅう)洋式砲術の下曾根金三郎信敦(しもそねきんざぶろうのぶあつ)に入門させ、また同4年には御抱鋳物師桜庭善左衛門に洋式大砲の鋳造を学ばせた。嘉永6年(1853)9月、藩士やその次男3男、15歳から50歳までの者に、篠崎と同門の河野益三郎通篤に入門し洋式砲術を稽古するよう命じている。一方、嘉永元年12月から翌年にかけて、平舘と藤嶋(ふじしま)(現東津軽郡外ヶ浜町三厩藤嶋(みんまやふじしま))に台場を築造、さらに嘉永6年には青森、安政5年には三厩に台場を完成させている。 さらに弘前藩では、「民兵」を組織し、海防体制に加えた。豊臣政権以降、兵農分離のもとで、武士が武力を行使できる立場として専業化し、農民層は原則として武装化を否定され、軍事動員の元でも非戦闘員として徴発されるにとどまっていた。ところが幕藩体制の進展に伴って、城下町に定住した武士たちが、商品経済の発達にともなって奢侈に走る一方、藩財政の弱体化にともなって俸禄の支給が抑制されるようになると、士風が退廃し弱体化していった。これを打開するために、兵農分離を解消して農村に土着させ、非常時には農民を軍事動員し戦闘力とするという武士土着論が、熊沢蕃山(くまざわばんざん)・山鹿素行(やまがそこう)・荻生徂徠(おぎゅうそらい)・太宰春台(だざいしゅんだい)らによって唱えられるようになった。江戸時代後期、対外的危機が深化し、海防問題が幕府・藩の政策的課題になると、異国船接近への即応性の問題や従来の兵力のみでは不足が生じることが明らかになった藩では、軍事力の不足を補い、かつ、沿岸の各所において即応態勢をとるため、町人・百姓を軍事力とする農兵制度をとる藩が現れた。弘前藩の「民兵」は、武士のように常時軍務に服する立場ではなく、日常は家業に従事し、有事の際緊急に動員される。このために、通常は労働力として活用することが可能である一方で、非常事態が発生した場合には多数の軍事力を動員することが可能となり、さらに民間にあることで藩にとっては知行を与えずにすみ、財政的負担が軽くて済むことにもなる。 民兵の動員については、蝦夷地においてロシアとの間で緊張が高まっていた文化5年(1808)、海岸を巡視した用人山鹿八郎左衛門高美が視察を終えた後、長大な沿岸を警備するには、城詰・蝦夷地警備の遂行にも当たる藩士だけでは人数不足であり、農民・町人も参加した藩領防衛の心得が各代官に伝達されている(「要記秘鑑」、青森県編纂『青森県史』5、歴史図書社、1971年、313~320頁)。 嘉永6年11月、弘前藩では海岸に面した外浜(そとがはま)と北浜・西浜の9組と「八浦」に対して、藩が海防のための軍勢を派遣、到着するまで防禦に当たる「民兵」を編成し、人数・武具・防禦の手順についての書上を作成、提出することを命じた。翌年正月までに書上が提出され、海防を担当する御備方で吟味し、さらに三奉行(勘定奉行・町奉行・郡奉行)、用人などの検討を経て、2月に家老の決裁を経て、藩主津軽順承(ゆきつぐ)に報告された。この民兵体制について同年6月に蝦夷地警備を担当する松前方が簿冊にまとめたものが本史料である。 このうち沿岸各組の手配は、油川(あぶらかわ)両組(油川組・後潟(うしろがた)組)では郷士・百姓・漁師・猟師・小国(おぐに)村(現東津軽郡外ヶ浜町蟹田小国)の鉄吹などあわせて220人、浦町両組(浦町組・横内組)でも同様の編成、金木(かなぎ)両組(金木組・金木新田)では代官所配下・村役人・百姓で178人、広須(ひろす)両組(広須組・広須新田)であわせて220人、赤石組(あかいしぐみ)では百姓・猟師・漁師・杣夫(そまふ)など162人、以上約1000人が民兵として編成された。 一方「八浦」とは、弘前藩が人や物、情報などを入れる窓口として、直轄下において統制していた津軽九浦(つがるくうら)とよばれる野内(のない)(現青森市野内)・青森・蟹田(かにた)(現東津軽郡外ヶ浜町蟹田)・今別(いまべつ)(現東津軽郡今別町今別)・十三(じゅうさん)(現五所川原市十三湊)・鯵ヶ沢(あじがさわ)(現西津軽郡鰺ヶ沢町)・深浦(ふかうら)(現西津軽郡深浦町深浦)・大間越(おおまごし)(現西津軽郡深浦町大間越)・碇ヶ関(いかりがせき)(現平川市碇ヶ関)のうち、内陸にある碇ヶ関を除く8か所のことである。 青森では火消組を中心に1組100人余、計600人に加えて、町中の剛強の者を加えて900人を民兵に編成し、彼等を1手200人前後、5手に分けた。野内では15~60歳の男子のうち屈強な者100人前後、蟹田では町内の者15歳から59歳までの男子230人を民兵とした。また鰺ヶ沢では漁師57人を船手として、そのほか260人を民兵として動員し、さらに15歳から60歳までの男子を町奉行所に招集するとしている。深浦では1組25人ずつ10組、計250人余りが動員された。 一方、民兵の確保が困難な場所も存在しており、例えば、今別は松前稼ぎの者が多く、屈強な者を集めるのが困難であるとして、藩が派遣していた三厩詰勤番人数の増援を仰ぐこととなった。また十三では商家・百姓・漁師の数が少なく、日雇いの人足が多い人口構成で、平素から船頭・水夫・松前稼ぎに雇われるものが多いため、町に残った者だけでは民兵を編成できないため近隣4つの組から応援を受けることになった。大間越でも15歳から60歳までの男子70人ほどを民兵とし、万一の際は赤石組から農兵が派遣されることになった。 民兵の武器は、漁師のヤス、猟師の鉄砲、木こりの山刀など、普段用いている手近な道具を利用し、服装は普段着にわらじばき、雨天時は笠と簔を着用した。ただし、彼らの役割は、あくまでも万一の際の海岸防禦であり、幕府の方針に基づいて無益な戦闘を避けることが方針とされていたため、実戦に参加することは想定されてはいなかったようである。(千葉一大) 【参考文献】 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』下巻之弐(陸奥新報社、1975年) 原剛『幕末海防史の研究―全国的にみた日本の海防態勢―』(名著出版、1988年)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史2-200
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管理記号
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丙8-1034
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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自治体史掲載
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海岸村々併八浦民兵一件(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第五節)
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