解題・説明
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『東北遊日記(とうほくゆうにっき)』は、幕末の萩(長州)藩士・山鹿流兵学(やまがりゅうへいがく)師範で、その後尊王攘夷派の志士、さらには「松下村塾(しょうかそんじゅく)」における教育者として活動した吉田松陰(よしだしょういん)(1830~1859)が、兵学修行のため江戸に遊学していた嘉永4年(1851)12月14日、藩の許可を得ず、突如江戸外桜田(現東京都千代田区)の毛利家上屋敷から秘かに抜け出して途に上り、翌年4月5日までの140日間、大略、江戸-水戸-白河-若松(会津)-新潟-佐渡-久保田(秋田)-弘前-小泊-今別-青森-小湊-盛岡-仙台-米沢-若松-日光-足利-関宿-江戸という行程で遍歴をした、その旅行記である。 松陰の旅の目的は、嘉永4年7月16日付で旅行を届け出た願書(山口県教育会編纂『吉田松陰全集』第11巻、岩波書店、1940年、265・266頁)によれば、文武が盛んな東北の各地を周遊して、同地の軍学者を訪ね、さらに地域の風俗・風習を知ることで、自らの家学である山鹿流兵学の「流儀修練の一助」とすることにあった。一方、旅における松陰の行動を『東北遊日記』から見ると、各地の名士や学者を訪ね意見を聴き、兵学者として海防の最前線である東北の見分・踏査を行い、機会があれば蝦夷地へと渡って、海防に対する認識を深めようとしていたことがうかがえる。 松陰の旅立ちは藩からの許可を得たものの、藩の発行する過書(かしょ)(通行手形)が国許から届かず、結果として脱藩という形で旅立った。これは、松陰に同行することになっていた2人の内、盛岡藩浪人安芸五蔵(あきごぞう)(江帾五郎(えばたごろう)、那珂通高(なかみちたか)、1827~1879)が藩内政争で敗れ憤死した亡兄の仇討ちを目指しており、それを忌避されたためといわれる。国許にいる親たちに松陰が宛てた書状では、友人との約束を違えることは信義に悖(もと)るとして脱藩したとしているが、松陰に脱藩という罪に対する意識がみられないことから、家学修行に拘束され生じた閉塞を打破するとともに、7月に房総・相模・伊豆の海防状況を巡見したことにより、藩よりも公のために行動しようとする思いが強まり、非常手段に訴えるべく脱藩を行ったと考察されている。 『東北遊日記』によれば、この旅で松陰が逗留した日数の長い場所は、水戸・会津・越後・佐渡・久保田・津軽・盛岡・仙台などだが、津軽については、津軽海峡が海防の最前線でもあり、また、弘前藩が松陰の家学である山鹿流兵学を伝えていた場所でもあるため、強い関心をもって言及がなされている。以下、同書の内容に則して、松陰の津軽の旅について記す。 松陰が津軽に入ったのは嘉永5年2月29日のことで、松陰と旅をともにする熊本藩士宮部鼎蔵(みやべていぞう)(1820~1864)の二人は、久保田(秋田)藩領から羽州街道を通り、矢立峠(やたてとうげ)を経て津軽に足を踏み入れた。松陰らは、前日宿泊した白沢村(現秋田県大館市白沢)で、庄屋山内儀兵衛から、文政4年(1821)に発生した相馬大作事件について話を聞いていた。山内の話は、弘前藩主津軽寧親を襲撃しようとした大作の行動にむしろ批判的なものであったが、山鹿素水や安芸五蔵から話を聞き、藤田東湖(ふじたとうこ)(1806~1855)が著した「下斗米将真(しもとまいまさざね)伝」にも目を通していた松陰にとっては、大作の行動は「其の志に感じ、其の事の遂げざりしを惜しみ、慨然」の感を抱かせるものであった。松陰は峠で大作を称える詩を詠じている。その後松陰らは、碇ヶ関(いかりがせき)(現平川市)、大鰐(おおわに)(現南津軽郡大鰐町)、石川(現弘前市石川)を経て、弘前城下に入り宿った。 翌3月1日、松陰らは元長町(もとながまち)に住む弘前藩士伊東広之進祐之(いとうひろのしんすけゆき)(梅軒(ばいけん)、1815~1877)のもとを訪ねている。梅軒は弘化元年(1845)から同4年にかけて西国に遊学し、その「旅日記」(青森県史編さん近世部会編集『青森県史 資料編 近世 学芸関係』青森県、2004年)によれば、熊本に滞在していた弘化3年(1846)12月9日に宮部と面会したという記述があり、すでに顔見知りの間柄であった。堀内久子(ほりうちひさこ)氏が指摘しているように、松陰が梅軒を訪ねたのは、この宮部と梅軒のつながりによるものであった。松陰らは、梅軒から、弘前藩の海防組織・指揮系統や藩校稽古館(けいこかん)の学制について、詳しく話を聞き取っている。松陰は、漢籍の古典についてまず意味や内容を考えず音読をする素読(そどく)を終えると、順次「小学」「史記」「漢書」「春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)」「詩経」「書経」「周礼(しゅらい)」「儀礼(ぎらい)」「礼記(らいき)」「易経(えききょう)」「明律(みんりつ)」「大学」「中庸(ちゅうよう)」「論語」「孟子(もうし)」について会講(かいこう)(講義)するという稽古館の指導法に深い関心を示し、「尤も見るものあり」と高く評価している。翌日も彼らは出発に先立ち梅軒のもとを訪ねており、梅軒は歓送の詩を彼らに送り、松陰がそれに和した。さらに、彼らの訪問を知って訪ねてきた訪問者を交え、出発まで談論風発したという。松陰らが語り合った梅軒の屋敷は現在「松陰室(しょういんしつ)」として養生幼稚園(ようじょうようちえん)の敷地内に残されており、1978年(昭和53)に「吉田松陰来遊の地 附 松陰室」として弘前市指定史跡となり、一般に公開されている(養生幼稚園による「松陰室」の紹介と拝観案内は、ホームページを参照されたい)。 3月2日、松陰は伊東邸を訪問する前、兵学の師山鹿素水(やまがそすい)の弟である荒谷定次郎を訪ねたのち、弘前城の周囲を巡っている。伊東邸を申刻(午後4時頃)に発した松陰は、この日藤崎(現南津軽郡藤崎町)に宿をとった。 3月3日には藤崎から板柳(いたやなぎ)(現北津軽郡板柳町)、鶴田(つるた)(現北津軽郡鶴田町)、五所川原(ごしょがわら)村(現五所川原市)を経て、金木(かなぎ)(現青森県五所川原市金木町)、さらには中里(なかさと)(現北津軽郡中泊町(なかどまりまち)中里)に向かおうとしたが、土地の人に誤った道を教えられて回り道をし、神原村(かんばらむら)(現五所川原市金木町神原)から岩木川を渡し船で渡り、富野村(とみのむら)(現中泊町富野)を経て中里に到着している。4日には中里から十三湖(じゅうさんこ)畔を歩き、脇元(わきもと)(現五所川原市市浦脇元)を経て、小泊(こどまり)(現中泊町小泊小泊)に泊まっている。 3月5日は、小泊で台場を見た後、藩が旅人の通行を禁じていた山道に入り、沢を何度もわたり、積雪をかき分けながらようやく山を越えて、浜辺に出た。「困苦太甚(はなはだ)し」と松陰に言わしめたこの難所は、現在では、算用師川(さんようしがわ)をさかのぼり、算用師峠を経て、竜泊ライン(国道339号線)と合流する10km程の山道と考えられていて、現在では「みちのく松陰道」と名付けられた遊歩道として整備されている。その後、松陰たちは三厩(みんまや)(現東津軽郡外ヶ浜町字三厩)、今別(いまべつ)(現東津軽郡今別町)を経て、袰月(ほろづき)(現今別町袰月)に至っている。松陰は竜飛崎(たっぴざき)(現東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜)と松前の白神岬(しらかみみさき)(現北海道松前郡松前町)の海峡3里の間を異国船が往来することを嘆き、幕府の枢要な地位にある者がこれに関心を向けないことを嘆いている。また、竜飛崎近隣の上宇鉄(かみうてつ)・本宇鉄(元宇鉄(もとうてつ))・釜沢(釜野沢(かまのさわ))・六十間(六条間(ろくじょうま))・筆島(藤島)、あわせて5つの村々に居住していたアイヌの人々を弘前藩が「教えて之を化」して「平民」と異ならないものにしたことを記している。この「平民」化とは、アイヌの人々の風俗や習慣を和人同様のものにし、さらに仏教の信徒とすることで人別帳につけ、最終的には諸役も負担させるというやり方で、松陰には、アイヌが風俗・習慣を否定され、和人化を強いられることに対する苦悩や同情、躊躇いなどは見られず、むしろ弘前藩による同化政策を範に、千島・樺太で同様の措置を採用するよう推奨しているのである。 3月6日、袰月を出立した松陰と宮部は、平舘(たいらだて)(現東津軽郡外ヶ浜町平舘)で台場を視察し、青森湾の入り口の要害に構えられたその縄張を絶賛している。さらに二矢村(二ッ谷(ふたつや)村、現東津軽郡外ヶ浜町平舘石浜磯山)から漁船に乗って海路を取り、翌暁、雪にあられが混じる天候の中、青森に到着した。人家もまだ戸を閉ざしており、船の中も冷え込んでいるため、海辺の船小屋で夜を明かしたという。松陰は青森を「一大湾港」とみているが、商港としての役割を展望することはなく、山鹿流兵学者の目で「宜しく軍艦数十隻を備へ以て非常に備ふべし」と、海防における軍港としての利用価値を重視している。 3月7日は、青森で食事をとったのちに出立、奥州街道を通って野内(のない)(現青森市野内)の番所を過ぎ、浅虫(あさむし)(現青森市浅虫)、黒石藩領の小湊(こみなと)(現東津軽郡平内町小湊)を経て、狩場沢を経て盛岡藩領へと入っていった。 著者の松陰は、名を矩方(のりかた)といい、通称は寅次郎,松陰のほか二十一回猛士とも号した。萩藩士の杉家の生まれで、5歳で山鹿流兵学師範である叔父吉田大助の養子となった。嘉永3年(1850)に北部九州を遊歴したことによって、外圧の危機を強く感じるようになった。翌年兵学修行のため藩主毛利慶親(もうりよしちか)(敬親(たかちか)、1819~1871)の参勤に従って江戸に赴き、山鹿素水(やまがそすい)につくとともに、傍ら安積艮斎(あさかごんさい)(1791~1761)・古賀茶渓(こがさけい)(1816~1884)に経学(けいがく)、佐久間象山(さくましょうざん)(1811~1864)に西洋式砲術を学び、その見聞を広げた。また房総・伊豆・相模に旅し、江戸湾沿岸の海防体制を確認した。東北の旅より帰った松陰は、主君の体面を憚らず他国者に信義を立てたことを本末転倒とされ、家禄と藩士の身分を取り上げられ、実家の杉家にその身柄を預け保護観察を命じ処罰をうけた(前掲『吉田松陰全集』第11巻、267~271頁)。しかし、藩では兵学師範としての松陰の才能を買っており、処罰の1か月後には10年間の諸国遊学を認めている。 嘉永6年(1853)年に四国・近畿各地を巡って江戸に到着した直後、黒船来航に遭遇、翌年の再来航の際、門人金子重之輔(かねこしげのすけ)とともにアメリカ軍艦に乗り込んで外国に赴こうとしたが失敗、幕府に自首して萩藩に引き渡され、国許での謹慎を命じられ、萩の野山獄(のやまごく)に投じられた。安政2年(1855)に許されたのち、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾を主宰し、門人中から、幕末・維新期に活躍する高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、前原一誠(まえばらいっせい)、品川弥二郎、山県有朋、伊藤博文らを輩出した。安政5年(1858)に発生した「安政の大獄」において捕えられ、翌年、処刑されている。 ここに挙げた弘前図書館蔵の『東北遊日記』は、松下村塾蔵版、上下二巻二冊の版本で、奥付によれば慶応4年(1868)7月版行、版元は大阪心斎橋通(しんさいばしどおり)唐物町北入(からものまちきたいる)(現大阪府大阪市東区)の河内屋吉兵衛である。「摂津名所図会大成(せっつめいしょずえたいせい)」十三ノ下(大阪市立中央図書館蔵)によれば、心斎橋筋(しんさいばしすじ)(通)について「心斎橋通書肆(しょし)」という項目を設け、「船場より島の内にいたり当橋すじに数多あり」と記しており、河内屋もそのような出版業者・書籍商が集中していた地域で出版業を営んでいた一軒である。 なお、比較的参照しやすい『東北遊日記』の刊本としては、山口県教育会編纂『吉田松陰全集』第10巻(岩波書店、1939年)、青森県叢書刊行会編『青森県叢書第3編 来遊諸家紀行集』(青森県立図書館、1952年。なお、同書の復刻は抄録である)、新編青森県叢書刊行会編『新編青森県叢書』第3編(歴史図書社、1973年。同書は既出『青森県叢書第3編』の復刻)、吉田常吉・藤田省三・西田太一郎校注『日本思想大系 54 吉田松陰』(岩波書店、1978年)がある。(千葉一大) 【参考文献】 奈良本辰也『日本の旅人⑮ 吉田松陰 東北遊日記』(淡交社、1973年) 海原徹『ミネルヴァ日本評伝選 吉田松陰─身はたとひ武蔵の野辺に─』(ミネルヴァ書房、2003年) 海原徹『江戸の旅人 吉田松陰』(ミネルヴァ書房、2003年) 海原徹・海原幸子『エピソードでつづる吉田松陰』(ミネルヴァ書房、2006年) 堀内久子「北方史の中の津軽 86 長旅で築き上げた人脈」(『陸奥新報』2012年2月20日付朝刊) 海原徹『松陰の歩いた道─旅の記念碑を訪ねて』(ミネルヴァ書房、2015年) 関口明・田畑宏・桑原真人・瀧澤正編『アイヌ民族の歴史』(山川出版社、2015年) 須田努『岩波現代全書105 吉田松陰の時代』(岩波書店、2017年)
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