解題・説明
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幕末から明治初期にかけての弘前の国学者であり、画家である平尾魯仙(ひらおろせん)(1808~1880)は、安政2年(1855)6月11日に弘前を出発、同月16日十三湊(とさみなと)(現青森県五所川原市十三(じゅうさん))を出帆する船に乗って松前に渡航し、松前城下(現北海道松前郡松前町)に2日間滞在した後、19日に同地を馬に乗って出発し、福島(現北海道松前郡福島町)・知内(しりうち)(現北海道上磯郡知内町)・木古内(きこない)(現北海道上磯郡木古内町)を経て、翌20日に箱館(現北海道函館市)に到着し、翌月6日まで同地に滞在し、その夜、船に乗って帰途に就き、海上が荒天で時化にあい、やっと10日に青森に入港することができ、13日に弘前の自宅に戻った。日数は33日、行程は65里、海路の往返は3、40里に及ぶ旅であった。 魯仙が箱館に赴いた目的は、当時の弘前藩が蝦夷地における非常事態に備える体制の下にあったことや、津軽海峡を往来し、時には上陸を試みる異国船に対する備えを強化していたという状況を踏まえ、彼が探究心旺盛であったことから推して、前年からこの年にかけてアメリカ・イギリス・ロシア・オランダ各国と締結された和親条約(わしんじょうやく)により条約港として開港された箱館に入港してきた外国船の姿を確かめ、それに乗り組んできた人々の風俗を見聞し、その止みがたい関心を満たすということにあったとされるが、一方、本史料に、6月28日に弘前藩士とともに、弘前藩が蝦夷地派兵の本陣を置いている箱館千代ヶ岱(ちよがたい)(現北海道函館市千代台町)に赴き、その図を描くともあることから、絵画または絵図作成について、藩の依頼を受けての渡海だった可能性も十分にある。 魯仙の箱館への旅は『箱館紀行』(弘前図書館蔵〈岩見文庫〉)、『松前記行』(函館市中央図書館蔵)としてまとめられた。後者が自筆本であり、前者は後者を謄写したものである。両者の間には構成に差異があり、後者は蝦夷地から青森に戻って以降の旅程が詳細で、前者は簡略、一方、前者において記された松前・箱館の景況や風習についての記述が附録とされたのに対して、後者ではすべて本文に取り入れられている。挿絵は前者の方が多く掲載されている。まず後者がなり、内容が整理されて前者が成立したものと考えられている。前者には安政2年8月2日の識語がある。 『松前記行』中には「此地逗留のうち、異人の諸業聴視するもの数十条あれば、別冊に録して好事家の翫弄に備ふへし」という一文がある。異国の人々の風俗についてまとめるとしたその別冊に当たるものが、本史料『洋夷茗話(よういめいわ(よういみょうわ))』だと考えられている。 本史料は郷土資料の収集家として知られた八木橋武實氏から弘前図書館に寄贈されたもので、自筆本である。体裁は美濃紙を二つ折りにした和綴じの大本(おおほん)2冊で、当時箱館にはアメリカ・イギリス・フランス・ドイツの4か国の黒船8艘が寄港しており、その乗組員らの風俗を見聞し、観察をもとにした本文と豊富な挿絵によって表している。 魯仙は開港場となった箱館の治安が安定しており、外国人と住民の接触が円滑に行われ、肩が触れ合っても反目しないほど良く馴れていることに筆を及ぼす。そして、外国人の風貌服装、言語や行動などを観察し、加えて外国船に必要な品物を納入する箱館の豪商山田屋の番頭忠七から普段接触している外国人の様子を詳しく聞き取り、執筆の材料として生かすとともに、市井の人々と外国人の接触に焦点を定めて記録している。その結果として表現はたいへん具体的で、迫真性に富んでいる。また、津軽の人らしく、外国の習俗との対比を試みるにあたって、津軽の風俗を比較の対象に選んでいることも特徴的である。 魯仙のみた外国人の姿と風俗は、記された内容を読むと、決して外国人たちを好意的なまなざしの下で描いてはおらず、その内容に違和感を抱くことも多くある。それは、開国直後を生きていた魯仙と、外国との往来が盛んになり、街頭を外国の人たちが歩くことが珍しいことではなくなった現代を生きる我々の間で、外国人と接する際に抱く認識と感情とが別物になってしまっていることが大きい。しかし、我々は彼の叙述や挿絵から、開国直後を生きた人間が、異なるものと初めて接した驚き、そこから感じる違和感や、強いコンプレックスと、一方でそれに対する好奇の目とを強く感じることができる。そんな彼の視点からいくつかを取り上げて簡単に記しておく(「 」内は『洋夷茗話』より引用)。 ① 見た目の特徴:身長の高さが大柄であることや、面貌、瞳の色、鼻の高さ、口の形、髪型などについて比喩を用いて記している。しかし、魯仙の印象には、「生臭くして近よるに耐えず」と述べたその体臭が強く印象に残ったようである。 ② 衣服:軍服やその金モール、飾り帯、各種の帽子、サーベル、靴などを観察し、挿絵にもまとめている。革靴については黒い染革を用いていることを「黒漆に塗り」と表現し(あるいは実際にそう思っていたのかもしれないが)、皮革を重ねて鋲で打ち付けるという製靴の方法についても記載しており、具体的である。軍服の隠し(ポケット)になんでも入っていると驚いているのは、さながら藤子不二雄の漫画『ドラえもん』のポケットに、なんでも入り、さまざまなものが出てくることに対する子供たちの驚きに近いものであろうか。 ③ 食物:パンを津軽の「シトギ」(水に浸した生米をつき砕いて、種々の形に固めたもの)に似ているとし、乾餅(ほしもち)のやわらかなものを食べているかのようだとその味を表現した。タバコは葉を押しつぶしているのを津軽の千枚漬けのようだとし、酒はウイスキーやワインを取り上げ、特にワインの栓となっているコルクを珍しがり、その用途について説明を加えている。一方、豚・牛・鶏については、その食肉処理が残酷なものとして映ったようで、その結果、魯仙は「彼等の所行惻隠慈怜の心なく、苛刻((ママ))無慙の甚しきハ此等に押して察せらるゝなり」と述べている。 ④ 風習・習慣:現代のわれわれが普通に見かける、夫婦が手をつないだり、腕を組んで歩いたりすることについて、魯仙は倫理を知らざる淫らな姿として受け取ったようである。外国の船員が酒をラッパ飲みしながら市中を歩くのも物珍しかったようで、その様子を挿絵に残している。さらに、アメリカ人とイギリス人の葬儀について関心を示し、葬具・葬列・埋葬・導師(牧師のこと)・墓標の違いなどについて、挿絵を交えながら詳細に記し、相互の比較を試みている。また葬列に伴っていた楽隊については、楽器の音色を表現し、またその形状についても挿絵を付して説明している。一方、文人である故か、西洋の本の装丁に関心を持ち、用紙を「薄葉紙」のようで「肌理細密く」と表現し、また挿絵の多さ、図版が銅板刷りで鮮明であることに驚き、表紙が革張りで帙のように作られていて、縁に金文字でタイトルが「沈刻」されているなどと説明を加えている。西洋の印刷物に興味を持った彼は、酒瓶についていたラベルを得て巻末に綴じたと述べている。実際坤の巻の本文末尾には「これハ陶子(酒のボトルのこと)に貼りし紙なり」と記して、英文らしき紙が貼付されている。 ⑤ 言語:外国人がうろ覚えながら日本語を話し、一方箱館の子供たちが、物の名前について実物を外国人に示しながら聞き出すなどのコミュニケーションが存在していたことが知られる。魯仙自身も聞き取った「ノンノ」(「否なこと」=no)、「タンキャウ」(「有りかたしと謝すること」=thank you)、「エヤス」(「返事のこと」=yes)、「ヲワラ」(「水のこと」=water)、「コツフ」(「陶杯(セトサカツキ)のこと」=cup)、「フウハ」(「扇子のこと」=fanか)、「バヘホウ」(「烟管(キセル)のこと」=pipe)、「タベアコ」(「烟草のことなり」=tobacco)などの単語を書きとっており、また、1から10までの数字の書き方、読み方を記している。 ⑥ 対日観:一方、外国人の対日観について、魯仙は「すへて彼等本邦を小国なりと侮蔑(アナトル)は、水手と雖もみな爾なり」と厳しい目で捉えている。山背泊の台場を見物にやってきたアメリカ人が、装備の大砲を見て「両手を少に披ひて、日本、ホンと云て笑ひ、又両手を大ひにひらひて、アメリカ、ドホンと云て、面を皺(シカ)め鼻を扭(ツマ)み、また吾(ワ)か大炮一トたひ放さは箱館忽ち微塵(ミチン)になるへき手真似をし、又台場の大炮をさして鳥を怖驚(ヲトス)に良かるへきなと手業して侮弄云ふばかりなかりしと云へり」と述べたとか、世界地図を出して各大国を指し示した後、日本を指して笑って見せたのはその小ささを笑ったものだろうとか、日本を得ることは容易いことだという様子を示したとか、船は小さくて砕けやすく、鉄砲は小さく軍用に役立たないなどと述べたと記しているのは、コンプレックスや排外的な意識が作用したものなのだろうか。それとも、箱館の一部を租借して「塞営(チンヤ)」をつくるという話を聞いたが故の危機感というものが敏感に筆致として現れたものなのかもしれない。 挿絵は、町を行き交う外国人の様子、靴・帽子、楽器、本、葬儀の様子・墓標、井戸水をくみ取るポンプ、洋犬、洗濯した服を満艦飾のように船の帆桁に干している船、亀田川での洗濯の様子、アメリカ銀貨の拓本、モノクルや望遠鏡などが描かれており、魯仙のこれまで接したことのない品々や風俗への興味関心が様々なものに及んでいることが示されている。 『洋夷茗話』には、同じ魯仙の著述による類本として『箱館異人談』(函館市中央図書館蔵)というものがある。比較すると、構成や文章に違いがあり、また挿絵の数も『洋夷茗話』より少なく、筆致も劣る。『洋夷茗話』には末尾の識語に「安政三丙辰八月十日正写終」とあって、『箱館異人談』をもとに、『洋夷茗話』が作成されたものとみられている。市立函館図書館の初代館長となった岡田健蔵の収集にかける並々ならぬ尽力によって北方関係史料の宝庫となった函館市中央図書館には、このほかに『洋夷茗話』の写本も所蔵されているが、こちらは弘前図書館本の乾・坤における挿絵を本文と分けて、「附図」として乾・坤それぞれ別冊としている。なお、函館市立中央図書館所蔵本は、同館のデジタルアーカイブより閲覧が可能であるので参照されたい。 なお、『松前記行』は『市立函館図書館蔵郷土資料複製叢書』第8巻(市立函館図書館編、図書裡会、1969年)や、『日本庶民生活史料集成 第20巻 探検・紀行・地誌 補遺』(竹内利美・原口虎雄・宮本常一編、三一書房、1972年)に収録され、また『函館紀行』は『洋夷茗話』とともに、津軽地域の民俗学研究に注力された森山泰太郎氏の校訂と解題を付して『生活の古典双書12 洋夷茗話・箱館紀行』(八坂書房、1974年)として刊行されている。『洋夷茗話』は『生活の古典双書』版の他、『青森県立図書館郷土双書 第3集 洋夷茗話』(1970年)として、本史料をもとに「縮写復刻」されているが、彩色されている挿絵が予算の都合上白黒とされたものがある。『箱館異人談』は『函館市史』史料編第1巻(函館市編集・発行、1974年)において翻刻されている。 著者の魯仙は、名を亮致(すけむね)といい、通称は八(初)三郎。魯仙(魯僊)・宏斎・雄山・芦川とも号した。弘前紺屋町の魚商小浜屋の主人平尾三郎次の子で、7、8歳のころ、専ら絵を描くことを遊びとしていたという。度を過ぎた熱中を心配した親に筆や硯を隠されたが、家の工事に来ていた大工の墨壺を借り、木片に絵を描き、木片が尽きればまた木を削って描き続けたという。のち松田駒水(まつだくすい)(1757~1830)に経史を学び、駒水の紹介で工藤五鳳(くどうごほう)(?~1841)、さらに五鳳の師である毛内雲林(もうないうんりん)(?~1837)に画を学んだ。また百川学庵(ももかわがくあん)(1800~1849)にも画法や文義を学んだ。30歳で父に願い出て家業を弟に譲って隠居し、画業と文筆に専念した。画業では多数の作品を残し、精密な写実の筆で郷土の風物民俗を写した「合浦山水観」「岩木山百景」「暗門竒勝」などを残している。門下には三上仙年、工藤仙乙、佐藤仙之、山上魯山、山形岳泉らがおり、明治期の弘前の画壇で活躍した。また、40歳で平田国学の門人となり(元治元年、1864)、同門で心友でもあった鶴屋有節(つるやありよ(うせつ))(1808~1871)とともに国学を津軽に広めた人物である。主著「幽府新論」(弘前図書館および無窮会神習文庫に分蔵)は出版を目指して一部が江戸に送られたが、結果として実現しなかった(別項参照のこと)。(千葉一大) 【参考文献】 「津軽旧記伝」八(東京大学史料編纂所蔵) 森山泰太郎「平尾魯僊」(弘前市立図書館編集『郷土の先人を語る(7) 兼松石居・平尾魯僊・秋田雨雀』弘前市立図書館・弘前図書館後援会、1971年) 竹内利美・原口虎雄・宮本常一編『日本庶民生活史料集成 第20巻 探検・紀行・地誌 補遺』(三一書房、1972年) 森山泰太郎校訂『生活の古典双書12 洋夷茗話・箱館紀行』(八坂書房、1974年) 函館市編集・発行『函館市史』史料編第1巻(1974年) 弘前市立博物館編集・発行『津軽の絵師』(1982年) 青森県立郷土館編集・発行『平尾魯仙─青森のダ・ヴィンチ─』(2013年)
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