文書名
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弘前藩庁日記(国日記)
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文書名(カナ)
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ヒロサキ ハンチョウ ニッキ クニ ニッキ
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文書名(ローマ字)
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Hirosaki hancho nikki kuni nikki
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別名
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文化10年11月26日条
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別名(カナ)
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ブンカ ジュウネン ジュウイチガツ ニジュウロクニチ ジョウ
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別名(ローマ字)
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Bunka junen juichigatsu nijurokunichi jo
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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御日記方編
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差出・作成者(カナ)
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オニッキ カタ
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差出・作成者(ローマ字)
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Onikki kata
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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文化10年(1813)11月
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作成年終
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数量
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1冊
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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30cm
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寸法(横)
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22.5cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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民次郎
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関連する人物・団体(カナ)
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タミジロウ
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関連する人物・団体(ローマ字)
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Tamijiro
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内容年
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1683
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内容年終
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内容
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内容(カナ)
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内容(ローマ字)
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解題・説明
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弘前藩の公式藩政記録「弘前藩庁日記」(文献によっては「弘前藩日記」とも)には、国許における行政・司法・人事をはじめとする政務全般の動向を記した弘前城中での記録である「御国日記」(「国日記」とも)と、江戸における幕藩間交渉、藩主の交際、江戸留守居役の交渉、藩邸内のできごと、国許との連絡事項などを記した江戸屋敷(上屋敷)の記録である「江戸日記」の2種類がある。前者は寛文元年(1661)6月3日の4代藩主津軽信政の初入部の日から記録が開始され、元治元年(1864)年12月までの間、約3300冊が残されている。なお、「弘前藩庁日記」には写しや破本をどのように数えるかで文献によって冊数に差異がある。福井敏隆氏(弘前市文化財審議委員会委員長)によれば、冊数は「国日記」3308冊、「江戸日記」1226冊であるという。 「弘前藩庁日記」には、藩政執行の上で先例を参照するためという目的があった(「日記役勤方之定」『新編弘前市史』資料編近世1、787号史料)。つまり、藩政執行上必要な行政文書として保管され、実用されていたのである。「国日記」は、藩の各部署で作成されていた記録の記事が集大成されたものであり(「国日記」天保3年6月28日条)、また「江戸日記」も同様に江戸における諸種の留書を整理したもので、したがって、史料としては二次史料として位置づけられる。 「国日記」の記載内容は、月初めに、その月の月番である家老・用人・大目付(おおめつけ)・寺社奉行(じしゃぶぎょう)・郡奉行(こおりぶぎょう)・町奉行・勘定奉行(かんじょうぶぎょう)・物頭(ものがしら)・青森在番(あおもりざいばん)の人名が列記される。日々の記事は、月日と天候が記されたあと、その日登城した家老・用人・大目付の人名が列記され、次に祭祀・仏事・行事や藩主の公的行事についての記事が記される。以下は順不同で、藩士の任免・役替え・家禄増減・家督・改名・縁組などの武士身分に関わる事項、武士のみならず町人・百姓身分にまで及ぶ賞罰記事、各方面の申し出・届け出・願い出とそれに対する対応、そして江戸からの飛脚の到着と、その飛脚がもたらした書状の内容などが記され、最後にその日の御城当番の人名が記されて終わる。 藩政組織には、日記記録の専門部署として、「御日記方(おにっきかた)」が設けられていた。延宝3年(1675)に定められた前出の「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録することが定められていたが、時代が下がり、行政組織で取り扱う事項が膨大となり、また御日記方でも藩庁日記以外の諸種の記録も扱う状況になると、日々それぞれの分掌から差し出される膨大な記録を藩庁日記という形にまとめ上げることが困難になり、記事内容の省略が行われたり、清書の滞りを促進させたりする措置がとられたりしている(なお、「弘前藩庁日記」については、筆者が執筆した『新編弘前市史 通史編2近世1』233 ~ 235頁の記述をもとにしている)。 本史料は「弘前藩庁日記(国日記)」の文化10年(1812)11月の分であるが、その26日条に弘前藩で発生した「文化惣百姓一揆」の首謀者と見なされた鬼沢村(おにざわむら)(現弘前市鬼沢)の民次郎(たみじろう)らに対する申し渡し、29日にも加担した百姓たちに対する処罰の申し渡し内容が記されている。 百姓一揆(ひゃくしょういっき)とは、幕府や藩の政策に反発した人々が徒党を形成し、所定の手続きを経ずに上訴する「越訴(おっそ)」、集団の圧力で要求を強いる「強訴(ごうそ)」、居村を立ち退き、領主の力の及ばない山林や寺、場合によっては隣領にまで逃亡する「逃散(ちょうさん)」、村人の一揆への参加を拒んだ者の家や政策に荷担する商人の店舗に乱入し、家財や書類などを破壊する「打ちこわし」などの非合法的手段をとって対抗し、要求の貫徹を目指した行為である。 長谷川成一氏に拠れば、江戸時代に発生した全国の一揆は3212件とされ、このうち東北地方で発生したのが664件であるが、現在の青森県域ではわずか28件を数えるのみだという。弘前藩で発生した百姓一揆の中では、天明の一揆、文化年間の民次郎一揆(たみじろういっき)、天保の一揆が代表的な一揆として知られる。 文化10年(1812)9月下旬に、南津軽、中津軽、新田地帯において、百姓たちが相次いで弘前に強訴する動きを見せた百姓一揆を「文化惣百姓一揆(ぶんかそうびゃくしょういっき)」と称する。このなかでも特に9月28日から翌29日にかけて高杉組(たかすぎぐみ)(現弘前市と西津軽郡鰺ヶ沢町のそれぞれ一部)・藤代組(ふじしろぐみ)(現弘前市の一部と北津軽郡鶴田町にかけての地域)・広須組(ひろすぐみ)(現つがる市と五所川原市の各一部)・木作新田(きづくりしんでん)(現つがる市の一部)の7、800人とも2000人ともいわれる百姓が弘前城北門(亀甲門(かめのこもん))外に集結した強訴が最大のもので、後に一揆の首謀者として処刑されることになった鬼沢村の庄屋代(しょうやだい)民次郎の名にちなんで、昭和30年代(1955~1964)以降に「民次郎一揆」と呼称されるようになった。 この一揆の原因については、天候不順であるにもかかわらず、藩が1反につき5升の年貢増徴を図ったためと考える説もあるが、瀧本壽史(たきもとひさふみ)氏による研究に拠れば、不熟作が引金となって引き起こされた一揆ではなく、領内開発と蝦夷地警備による農村の疲弊、すなわち蝦夷地警備に向かう幕府役人の行列に対する助郷等の人馬負担、蝦夷地警備に郷夫として徴用される不満、この時期弘前藩が展開していた新田開発・廃田復興、隠田・縄延地の摘発などによって、30年前と比較して百姓の負担が3倍に増大していた状況に対する反発を原因と見なすことができる。 藩では訴状の内容を検討し、家老の津軽頼母模宏(つがるたのものりひろ)の計らいで、年貢の一部減免が認められたが、これは百姓に対する懐柔策であって、百姓に対する負担が改善の方向に向かったわけではなかった。一方、藩では一連の徒党・強訴の首謀者48人を捕縛し、12月11日までに34人が処罰されている。中でも民次郎は、本史料の11月26日条にみえるように、取上村(とりあげむら)(現弘前市取上1~5丁目など)の刑場において、一揆の「頭取」と見なされ、「言語道断不届至極」として斬首されている。 民次郎は明治に入ると「義民」として顕彰されるようになり、様々なエピソードに彩られ徐々に伝説化された存在となっていった。しかし、民次郎の人物像や行動について語るこれらの逸話は、実は史料から裏付けがとれないものである。 なお、瀧本氏収集による「弘前藩庁日記(国日記)」ほかの「文化惣百姓一揆」関連史料が、青木虹二編『編年 百姓一揆史料集成』第九巻(三一書房、1982年)251~262頁に収められているので、併せて参照されたい。(千葉一大) 【参考文献】 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』下巻之壱(陸奥新報社、1973年) 長谷川成一「百姓一揆」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年、775頁) 福井敏隆「民次郎一揆」(同上書、500頁) 瀧本壽史「民次郎一揆の真相 蝦夷地警備を背景とした弘前藩最大の一揆」(長谷川成一監修『図説 弘前・黒石・中南津軽の歴史』郷土出版社、2006年) 瀧本壽史「義民・民次郎一揆再考」(長谷川成一監修、浪川健治・河西英通編『地域ネットワークと社会変容―創造される歴史像―』岩田書院、2008年) 瀧本壽史・上野秀人・篠塚明彦「地域素材の研究成果を活用する授業づくり―「弘前藩・民次郎一揆」の研究成果の活用を素材として―」(『弘前大学教育学部紀要』第115号(第2分冊)、2016年)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史3-011
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管理記号
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TK215-1-2599
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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津軽家文書
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弘前藩庁日記
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自治体史掲載
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民次郎斬罪を記した国日記記事(『新編弘前市史』通史編3(近世2) 第5章第二節)
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