解題・説明
|
本図は、明治26年(1893)7月、青森町(現青森市)の神谷久三郎の編、弘前東長町(ひがしながまち)48番戸の長谷川清太郎の発行によるもので、中心には、旧城を中心にして、西は岩木川から東は松森町(まつもりまち)までを範囲とする市街地の地図を置き、周囲に市街地に存在した役所・学校・商店遊郭貸座敷・料亭・飲食店などの建物の姿が描かれ、また弘前からの里程も付記されている。 津軽信枚(つがるのぶひら)が弘前城を築城してから藩の城下町として栄えてきた弘前だったが、明治3年(1870)年末に士族の帰農を認めると、翌年にかけて、士族で願い出た者に分与地を決めて、在方への移住を認可した。このため、城下を離れる士族も多く現れた。明治4年(1871)7月の廃藩置県によって大きな転機を迎えた。当初、弘前には、弘前県の県庁が置かれ、同年9月に弘前・黒石(くろいし)・七戸(しちのへ)・八戸・斗南(となみ)・館(たて)の5県が合併し新たな弘前県となったが、同月23日弘前県は青森県と改称し、県庁も青森に移転した。これにより、弘前は藩政期以来の行政の中心地としての地位から転落した。 この時期の弘前市街を描いた絵図として、「士族在籍引越際之絵図並官社学商現在図」(弘前市立博物館蔵)が知られている。この絵図は、明治4年以後、同10年代頃までの居住者、行政施設・学校・寺社等の変遷の様子が書き込まれた絵図である。これによると、弘前城下の範囲とされていたのは、東は和徳町(わとくまち)東側から西は駒越町(こまごしまち)岩木川の土居までで、距離にして25丁20間、南は新寺町(しんてらまち)報恩寺(ほうおんじ)の裏から北は紺屋町(こんやまち)岩木川の土居までで、距離にして23丁56間である。町の数は、士族町が47町、町家が42町、寺社門前町は17町である。士族町には、屋敷地一筆ごとに在住する旧藩士(士族)の名が記されているが、廃藩置県後、これらの士族は屋敷を売却して在方へと転住、帰農し、その跡地がリンゴ園や畑地となったり、士族に代わって屋敷を買い求めた平民が暮らすようになったりしている。一方、城下の南の固めであった南溜池(みなみためいけ)は、明治4年まで用水が入り、農業用のため池として活用されていたが、間もなく涸れて、明治11年には朝陽(ちょうよう)・和徳(わとく)・亀甲(かめのこう)などの公立小学や東奥義塾(とうおうぎじゅく)の学田として開墾されてしまい、城下の景勝地でもあったかつての面影は失われた。「弘前市実地明細地図」には跡地の位置に「旧南溜池」と記されている。また、新政府の神仏分離政策の影響を受けて、大円寺(だいえんじ)が大鰐(おおわに)(現南津軽郡大鰐町)に移転した跡地には最勝院(さいしょういん)が移り、熊野宮の別当寺であった袋宮寺(たいぐうじ)が報恩寺(ほうおんじ)の塔頭無量院(むりょういん)と合併して新寺町(しんてらまち)に移るなど、多くの寺院が移転している。維新以降の社会変動によって、城下を支えてきた士族たちが没落し、それに伴って町が衰微している状況が見て取れる。 士族の没落に加え、めぼしい産業もなかった町の衰退は、その人口の漸減にも表れ、明治3年(1870)に3万9568人だったものが、明治22年(1889)には3万1375人(戸数6240)へと減少している。それでも弘前が青森県下第一の都市であったことには変わりなく、同年4月1日に県下で初めての市制が施行された。 「弘前市実地明細地図」に描かれた建物に目を転じると、明治初期から中期にかけて、学校建築と官公庁建築が洋風建築の先駆をなした。地図中心の下方には、下白銀町(しもしろがねちょう)に明治13年に建てられた青森地方裁判所支部・弘前区裁判所、元寺町(もとてらまち)に明治25年新築の弘前市役所、それに隣接した弘前警察署の図がみられる。一方、維新後の弘前は教育熱が高まっており、明治5年(1872)に、下白銀町のもと藩校稽古館敷地に東奥義塾が開設され、また同年の学制発布後、明治9年までに開設された公立小学校は10校、さらに私立の小学校は25校が乱立した。本図に描かれた小学校の校舎は、明治21年に蔵主町(くらぬしちょう)に新築された時敏尋常小学校(じびんじんじょうしょうがっこう)、その翌年に改築された和徳尋常小学校、同年新築の弘前高等小学校、同24年に焼失ののち再建された大成尋常小学校(たいせいじんじょうしょうがっこう)である。また、ここに描かれていないものの、明治22年に青森から県立尋常中学校が元寺町に移転し、同25年に焼失したのち、同27年に新寺町に移転竣工した。この時の建物の一部が、現在、尋常中学校の後身である県立弘前高等学校の「鏡ヶ丘記念館」として残されている。 停滞していた弘前が再び活気を取り戻したのは二つの要因があるとされている。まず、この絵図が発行された直後の明治27年12月1日、官営鉄道(かんえいてつどう)奥羽北線(おううほくせん)(現東日本旅客鉄道奥羽本線)の弘前・青森間が開通したことである。弘前駅は代官町(だいかんちょう)の北東約500メートルの和徳村(わとくむら)地内に設けられ、市街地と代官町を結ぶ道路が作られた。鉄道の開通によって、旅客のみならず、米穀をはじめとする物資の輸送の便が開かれた。さらに、陸軍の第8師団が明治29年に弘前に設置された。翌30年には師団所属の歩兵第31連隊ほかの部隊が置かれ、清水村(しみずむら)から千年村にかけた地域に軍事施設が集中的に配備された。これに伴い、市街地南部から師団の各種施設を結ぶ道路が建設された。また、将校の多くが家族連れで移住したことにより、人口も増加に転じた。また、市街地の中心が、城下町以来栄えてきた本町から、師団や駅により近い土手町へと移っていった。流通インフラの整備、人口増加や購買力の拡大は。弘前の地域経済に大きな影響を与えることになったのである。(千葉一大) 【参考文献】 青森県文化財保護協会編『みちのく叢書 第5巻 津軽歴代記類 下』(国書刊行会、1982年) 草野和夫『青森県の文化シリーズ24 津軽の洋風建築』(北方新社、1986年) 横尾実「弘前の都市構造への歴史的制約」(『東北地理』39、1987年) 今井敏信「津軽の中核都市「弘前」」(山田安彦・山崎謹哉編『歴史のふるい都市群④─東北地方日本海側・北海道の都市─』大明堂、1990年)
|