文書名
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志記
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文書名(カナ)
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シキ
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文書名(ローマ字)
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Shiki
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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毛内有右衛門(茂粛)
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差出・作成者(カナ)
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モウナイ アリエモン シゲトシ
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差出・作成者(ローマ字)
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Mounai Ariemon Shigetoshi
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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作成年終
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数量
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1冊(65丁)
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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24cm
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寸法(横)
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17cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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寛政2年
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内容年終
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内容
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寛政2年(1790)の著述で官職考 関市考 戸籍考 田賦考 雜考等よりなる
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内容(カナ)
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カンセイ ニネン センナナヒャクキュウジュウ ノ チョジュツ デ カンショクコウ カンシコウ コセキコウ デンプコウ ザツコウ ナド ニ ヨリナル
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内容(ローマ字)
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Kansei ninen sennanahyakukyuju no chojutsu de kansyokuko kanshiko kosekiko denpuko zatsuko nado ni yorinaru
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解題・説明
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本史料は、弘前藩士で、持筒足軽頭などを勤めた毛内宜応(もうないぎおう)(1736~1804)が著した政治論である。 江戸時代前期から中期にかけ、朱子学を批判し、経書の直接研究により孔子・孟子の思想の真意を探究しようとする「古学派(こがくは)」の学統が形成された。この派の学者としては、山鹿素行(やまがそこう)(1622~1685)、伊藤仁斎(いとうじんさい)(1627~1705)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666~1728)らが有名である。仁斎の「古義学(こぎがく)」は「孔孟の本指」を明らかにすることを理想とし、後世の儒家たちによってなされた経書の解釈を排斥、直接経書に当り孔孟の思想を明らかにすることを目指した。それにより、仁斎は、孔子本来の教えを日常の人倫に対する対他的実践の重視にあると考え、それによって人間社会の道徳的再編を目指そうとしたのである。一方、徂徠の「古文辞学(こぶんじがく)」は、古言に習熟することによって、古代言語とそれによって示される文化を後世から理解しようとする方法として確立されたもので、「六経(りくけい)」(儒教の基本的な6つの経典である『易』『書』『詩』『礼』『春秋』『楽』の6つを指す)によって、古代中国の聖王の道=「先王の道」を明らかにしようとし、その道の本質を「礼楽刑政」、すなわち国家を構成する文化・政治の体系に求めた。そして、孔子が伝えようとしたのも「先王の道」であると説いた。徂徠の思想は、その道に則り、人間社会における多様・多彩で豊かな政治的・文化的再編成を目指したものである。 徂徠の学派は「蘐園学派(けんえんがくは)」と呼ばれ、太宰春台(だざいしゅんだい)(1680~1747)・服部南郭(はっとりなんかく)(1683~1759)らを輩出した。徂徠死後、その説は人間の持つ内面の道徳的陶冶を軽視したと朱子学の徒から非難されるようになり、やがては「寛政異学の禁」という事態を招き、朱子学の再興につながることになった。一方、古文辞学の古言の習得を通じて文献にアプローチするという方法論は、国学に影響を与えた。 弘前藩では、山鹿素行に藩主津軽信政(1646~1710)が師事して以来古学派が盛んとなり、宝暦改革を推し進めた乳井貢(にゅういみつぎ)(1712~1792)も古学派であった。さらに寛政改革においても起用された推進者たちは徂徠学派の者が多く、その思想が大きな影響を与え、特に武士の土着を進めた家中在宅政策にそれが顕著である。 毛内宜応はその家中在宅を提言した人物である。毛内家は禄高300石、宜応の父は宝暦改革の推進者である用人毛内有右衛門茂巧(しげよし)である。宜応は初名を弥惣太、左衛門、のち有右衛門、諱は初め茂長、のちに茂粛(しげよし)といい、宜応は隠居後の号である。宝暦8年(1758)7月、父茂巧の蟄居・隠居により家督、手廻組に属した。さらに目付、諸手足軽頭を歴任、安永8年(1779)に持筒足軽頭となった。ところが、天明2年8月病と称して辞職、隠居した。彼は剛直・方正な人柄で、隠居の真相は、当時の藩政の中心人物である家老森岡主膳元徳の施政に対する不満からだったという。 天明3年(1783)の大飢饉を受けて、翌年9月、宜応は新たに藩主となった津軽信明(のぶあきら(のぶはる))に意見書を提出し、城下に居住する藩士を農村に移住させ、荒廃した田畑の復興に当らせる家中在宅を提言した。これが「毛内宜応存寄書」として知られるものである(別稿参照)。信明は宜応の意見に着目し、宜応から意見を聴取し、自発的な藩士の在方移住を許可したが、このときには制度化に至らなかった。宜応は率先して常磐組水木村に移住している。 本史料は寛政2年(1790)12月の自序を持ち、「官職」「関市」「戸籍」「田賦」などといった制度面に着目し、その弘前藩におけるあるべき姿を論じている。その基調は「経世済民」、つまり、世を治め人々を救うためのあり方であり、そのために既存の制度を改革するという強い意志が示されている。宜応が制度的な面への関心を示したのは、荻生徂徠が国家を形成する体系として「礼楽(れいがく)」を重視する姿勢をとったことによるもので、宜応の思想が徂徠の影響を受けていることを示すものである。これも徂徠の主張する「礼楽」によって示される「道」が聖人によって形成されるという考え方の弘前藩的な展開として、宜応は、弘前藩において「道」を示した聖人を津軽信政にみている。そして、信政によって調えられた弘前藩の文物制度が徐々に衰微してきたことを受けて、信政の道に回帰して新たに建て直す必要性を説いている。本史料は自序と「官職」の部分のみが『新編弘前市史』資料編近世2において小島康敬氏の解題を付して翻刻されており、本稿執筆においても解題における小島氏の所説を引いた。 なお、宜応は、詩歌や国学、神道なども研究して、諸国の文人と広く交遊し、津軽を訪れた国学者・旅行家白井秀雄(のちの菅江真澄(すがえますみ)、1754~1829)や文人の橘(山本)由之(ゆうし(よしゆき))(1762~1834)を食客としていた。(千葉一大) 【参考文献】 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』中巻(陸奥新報社、初版1970年、改訂新版1973年) 瀧本壽史「毛内宜応」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年、904頁) 山上笙介「毛内宜応」(家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』第1巻、新人物往来社、1997年、271~272頁) 子安宣邦監修『日本思想史事典』(ぺりかん社、2001年)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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弘前図書館
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史3-171
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管理記号
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GK304-31
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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資料分類(大分類)
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岩見文庫
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資料分類(中分類)
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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manifest.jsonへのURL
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参照データ
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関連ページURL
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関連画像URL
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自治体史掲載
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志記(『新編弘前市史』通史編3(近世2) 第8章第二節)
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出版物・関連資料
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翻訳元の言語
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権利関係・利用条件
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原資料の利用条件
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権利関係・利用条件に関する注記
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緯度・経度・高度に関する注記
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DOI
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既刊目録名
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デジタル化の経緯に関する注記
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