文書名
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蘭洲先生遺稿
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文書名(カナ)
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ランシユウ センセイ イコウ
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文書名(ローマ字)
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Ransyu sensei iko
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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5巻
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差出・作成者
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山崎道沖,伴建尹等編
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差出・作成者(カナ)
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ヤマザキ ドウチュウ バン タケノブ トウ
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差出・作成者(ローマ字)
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Yamazaki Dochu Ban Takenobu to
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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文化2年(1805)
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作成年終
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数量
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2冊(91丁,79丁)
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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26cm
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寸法(横)
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17.5cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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木活
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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内容年終
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内容
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山崎道沖通称図書字仲漠また敬夫初めの名明号蘭洲 寛政11年(1799)没 67歳
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内容(カナ)
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ヤマザキ ドウチュウ ツウショウ ズショ アザナ チュウバク マタ ケイフ ハジメ ノ ナ アキラ ゴウ ランシュウ カンセイ ジュウイチネン センナナヒャクキュウジュウキュウ ボツ ロクジュウナナサイ
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内容(ローマ字)
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Yamazaki Dochu tsusyo Zusyo azana Chubaku mata Keihu hajime no na Akira go Ransyu kansei juichinen sennanahyakukyujukyu botsu rokujunanasai
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解題・説明
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『蘭洲先生遺稿(らんしゅうせんせいいこう)』は、弘前藩士で儒者・医者・詩文家・書家として知られる山崎蘭洲(やまざきらんしゅう)(1733~1799)の遺文集で、蘭洲没後、門人の伴才助建尹、葛西善太清俊・唐牛大六満春・工藤民助懿文などが校訂・編輯にあたり、文化2年(1805)、弘前藩校である稽古館蔵版(けいこかんぞうはん)として刊行された。 藩・大名の援助・出資によって出版した書物を「藩版(はんぱん)」と称するが、そのなかでも藩校名義の開版を「藩校版(はんこうばん)」と呼ぶことが笠井助治氏によって提唱されている。稽古館が刊行した本書も「藩校版」に分類することができる。稽古館では学生が安価で教科書を入手できるよう、開館当初から出版事業にも力を注いでおり、学館内に彫刻方を設置して、廃藩までに本書を含め18部35冊余を開版したという。このような稽古館が刊行した書物を一括して「稽古館本(けいこかんぼん)」と呼ぶ。 稽古館本には、1枚の板に版下を刻んだ木版(整版(せいはん))と、木活字を用いた組版印刷による木活字本(もくかつじぼん)とがあるが、本書は後者で、初版は5冊本だったが、版を重ねるうちに4冊本・2冊本に合冊製本されている。 以下、本書の構成と内容を記す。巻1から巻4には蘭洲作の漢詩を収める。同書に収録された詩は、偶数句で同一ないし近似の音で韻を踏む(押韻(おういん))が、韻律上の調和のために守るべき定め(平仄(ひょうそく))や句数には制限がない古体詩(こたいし)と、唐の時代に確立した厳格な韻律(いんりつ)を持つ近体詩(きんたいし)がある。本書においては、巻1が古体詩にあてられ、5言の句からなる五言古詩(ごごんこし)11首、7言の句からなる七言古詩(しちごんこし)14首が収められている。巻2から巻4は近体詩からなっており、巻2には五言の句が8句からなる五言律詩(ごごんりっし)が110首収録されている。巻3には、近体詩である五言排律(ごごんはいりつ)(1句が5言で、10句以上からなる)5首、七言律詩(しちごんりっし)(7言の句が8句からなる)103首を収める。巻4は、近体詩のうち4句の詩形である絶句(ぜっく)を収め、五言絶句(ごごんぜっく)(1句の字数が5字のもの)38首、同じく七言絶句(しちごんぜっく)(1句の字数が7字のもの)145首からなる。巻5は上下からなり、蘭洲作の序(じょ)(書物のはしがき。著者あるいは関係者が、著作物の意図や成立経過を述べる文)が10編、記(き)(客観的な事柄を記述した文章)が1編、論(ろん)(論理的に、言説を比較したり、真理を追究したりした文章)2編、雑文(ざつぶん)(専門的ではない文章)5編、銘(めい)(金属や石に刻み込んだ文章)1編、賛(さん)(人物や物を褒めたたえる文章)15編、説(せつ)(物事の理を解釈し、自分の意見を述べたもの)5編、贈言(ぞうげん)(人に贈った文章)1編、墓誌(ぼし)(墓主の伝を記した散文)1編、墓碑(墓碑銘。死者の経歴などを刻んだ墓石の文章)1編、祭文(さいもん)(祭祀の際、神を祀り称える文)1編、引(いん)(序の類で短い文)1編、読(どく)(書物についての感想を記した文)1編、題跋(だいばつ)(書物などのあとにつける、由来、本末、評などを記した文章)7編、書牘(しょとく)(書簡文)15編を載せた文集である。巻5下の最後に、葛西清俊による蘭洲の伝「蘭洲先生行状(らんしゅうせんせいぎょうじょう)」を付している。 著者の山崎蘭洲は、藩医山崎道有清雄の長子で、通称は初め初之助、常助(丈助とも)といい、のちに図書。名は初め明といい、のち藩主津軽信明(のぶはる(のぶあきら))(1762~1791)の諱を避けて道冲と改めた。 山崎家の初代幸斎清久は、早くに父を失い、母とともに祖父である常陸国矢田部(やたべ)(現茨城県つくば市)藩医山崎閑斎に養われた。幸斎はのち閑斎の養子となって家を継いだが、故有って浪人して京都に住み、元禄(げんろく)年中(1688~1704)に津軽に来住した。のち津軽信寿(つがるのぶひさ)(1669~1746)に召し出され、藩医として200俵を給された。蘭洲は幼少にして鋭敏の誉れ高く、8歳で詩を能くし、19歳(宝暦元年、1751)で江戸に赴き3年間学び、宝暦7年には上洛して医術・儒学を修め、同9年2月に命じられて帰国するまで学んだ。明和5年からは4年間、江戸・京都・西国・長崎などに遊学している。 蘭洲は宝暦6年(1757)に家督を相続して藩の奥医師に就任し、学問掛の兼務を命ぜられた。明和2年(1765)2月朔日より評定所において、毎月2・7のつく定日に四書を講じている。この評定所においての講釈は遊学期間と天明3年(1783)10月に歯痛のため一時中断し、天明5年正月に再開した後も歯痛のため門人の伴才助・唐牛大六が一時代講するに至っているが、藩校の開設まで続いている。 一方、また宝暦9年(1759)と明和5年(1768)には、江戸の幕府天文方(てんもんがた)山路弥左衛門主住(やまじやざえもんぬしずみ)(1704~1772)のもとで星暦術を学び、明和4年正月朔日には樹木派(じゅもくはだち)(現弘前市樹木1~4丁目)において日蝕の観測を行っている。安永元年(1772)9月に帰国すると、10月2日に藩内で用いる略暦の作成を命じられ、以後毎年作成した。安永2年(1773)には「新暦撰考」を編み、藩主津軽信寧(つがるのぶやす)(1739~1784)に献じた。また、安永3年には門人たちに童子森(現弘前市富田字童子森)で日食観測を行わせている。この後も蘭洲は日食観測をしばしば行っている。 天明4年(1784)、初入部した新藩主津軽信明から、飢饉対応について和漢の事例に即した意見を求められた蘭洲は、民が苦しまないようにするのは家老以下藩政に携わる者が処置すべきことで、「句を適ミ章を尋る臣等の預る処にあらす」と、学問が政治と距離を置くという立場から言上した。この返答に対し信明は、「凡学問ハかゝることに心を用るこそ実学とも云へけれ」と大いに不満を示し、蘭洲に、古来よりの飢饉における救恤事例を集めて提出するよう命じたという(「津軽旧記」十二、東京大学史料編纂所蔵)。 寛政2年(1790)6月、隠居を願い出たが許されず、勤料30俵を加えられて御小姓組頭格に遇されるとともに、7月1日から、弘前城本丸御殿の芙蓉之間(ふようのま)において、中国の歴史故事集である「説苑(ぜいえん)」について、藩主・重臣・近習を対象に、検討・考究を加える会読(かいどく)を開始し、以後毎月朔日に実施した。 寛政6年(1794)8月16日には、藩校創設に御用懸として参画するよう命じられている。藩校設立に際しては、幕府の儒者林家(りんけ)に門人葛西善太が送られて学校運営の問い合わせを行い、また遊学の際他国の藩校を見分した蘭洲がその絵図面を提出し、それぞれ参考に供されたという。寛政8年(1796)6月に稽古館が開校すると、大目付次順となり、藩校運営の総責任者である惣司のもとで、その補佐にあたる小司に任命された。また、略暦の作成は稽古館に移管され、稽古館の数学教官が作成し、幕府天文方の検閲を得る形で、明治3年(1870)まで継続された。これを「稽古館暦(けいこかんごよみ)」と呼んでいる。 寛政10年(1798)10月15日に御役御免、翌11年2月1日に隠居、同4日に病死。享年67。城下新寺町の縁亀山徳増寺(とくぞうじ)に葬られた。(千葉一大) 【参考文献】 「津軽旧記伝」八(東京大学史料編纂所蔵) 羽賀與七郎「稽古館成立に関する一考察」(『弘前大学國史研究』18、1959年) 笠井助治『近世藩校における出版書の研究』(吉川弘文館、1962年) 弘前市史編集委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年)480~482・483~503・529~531・534~535頁 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土文献解題』(1970年)85~87頁 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』中巻(陸奥新報社、1973年)464~465頁 月足正朗「山崎蘭洲」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年、921頁) 山上笙介「山崎蘭洲」(家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』新人物往来社、1987年、277頁)
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解題・説明(英語)
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資料番号
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管理記号
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GK026-5
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文書・記録
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資料種別
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蘭洲先生遺稿(『新編弘前市史』通史編3(近世2) 第8章第二節)
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