解題・説明
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「幽府新論(ゆうふしんろん)」は、津軽の絵師で国学者としても知られる平尾魯仙(ひらおろせん)(1808~1880)が、現世と幽冥界との関係に関心を抱き、その研究の成果をまとめた著書で、慶応元年(1865)の成立。著者による国学研究のライフワークともいえる代表作である。 その内容は、現世に対する幽冥の世界、神霊の存在する世界の存在の実証を試みたものであって、平田国学の代表的なテーマの一つに挑んだものといえる。 現在弘前図書館には、全8巻のうち巻5・巻6の「雷(いかづち)論」、巻7の「地祇(ちぎ)論」、巻8の「人鬼論」が所蔵されている。このうち、巻5巻・巻6の「雷論」は、記紀の雷の例、さらには津軽の落雷の事例を挙げて、陰陽の二つの気が活用して雷ともなり雨ともなるとする。さらに、雷獣・雷鳥・雷魚にまで話は及び、雷とは異形のものであっても、形はどうであれ、現象よりも本質を見ることの重要さを訴える。その結論は天地間にあるありとあらゆるものの存在は「神の御所為」によるものであるとしている。また、巻8の「人鬼論」では、津軽の民間における実話を引きながら、人の神霊は幽冥界に実存するものであって、人の目にはその形は見えるものではないが、心も形もあるものであるということを立証しようと試みている。要は、霊や異形なるもの、妖しきものを、論拠として著者にとって身近な地域の話題である津軽の実例を盛り込みながら、学術的に存在を実証しようとしたものである。 魯仙は著作を世に問うべく、慶応2年(1866)、同じ平田門下で江戸に滞在していた下沢保躬(しもざわやすみ)(1838~1896)に、同書のうちからまず4冊を送り、平田国学(ひらたこくがく)の主宰者である平田銕胤(ひらたかねたね)(1799~1880)の批評を請うた。慶応3年正月の銕胤書状によれば、「中々以て容易ならざる御著論、先ず以て感驚罷り在り候」と述べている。同年9月に銕胤の子延胤(のぶたね)(1828~1872)が記した批評では、魯仙が凶事に絡めた日食・月食についての論を批判し、学問において合理的・科学的な姿勢を求めていることがうかがえる。また延胤の弟である胤雄(たねお)の書簡によれば、「幽府新論」と路線の別の著作で津軽奇談集というべき「谷の響」を、伊予出身の国学者矢野玄道(やのはるみち)(1823~1887)の依頼で貸与(つまりは又貸し)したとあり、平田門下の中で同書に注目していた向きもあることが知られる。 平田家の家塾「気吹舎(いぶきのや)」では、平田国学の開祖で、仏教・儒教の影響を排し、古来の純粋な信仰に立ち帰ろうという神道思想「復古神道」の大成者でもある平田篤胤(ひらたあつたね)(1776~1843)の著作を中心に書籍を発行しており、版本だけではなく筆写本として販売する場合もあった。出版の話も伸展を見ていたが、幕末維新の混乱、さらには明治5年の延胤死去という事情も重なり、沙汰止みとなってしまった。なお、中川和明氏は、明治4年段階で魯仙が同書の返却を求めていたことを指摘し、自身の研究が新時代に受け入れられないであろうことを見越したものと考察している。 魯仙が返却を希望したにもかかわらず、巻1から巻4までは返却されずに終わった。現在全8巻のうち、弘前図書館に所蔵されている巻5から巻8のほか、巻1・巻2の「天神論」は、公益財団法人無窮会専門図書館(東京都)に所蔵されている国学者井上頼圀(いのうえよりくに)(1839~1914)の蔵書を収めた神習文庫に含まれており、巻3・巻4は所在不明となっている。なお、国立国会図書館には、魯仙の孫たちから寄贈された「幽府新論」の草稿、「新論草藁」全13巻がある。また巻1・巻2が『青森県史 資料編近世 学芸関係』において、巻8が『新編弘前市史 資料編3・近世2』で翻刻されている。全体像からは程遠いものではあるが、それぞれ参照されたい。 著者の魯仙は、名を亮致といい、通称は八(初)三郎。魯仙(魯僊)・宏斎・雄山・芦川とも号した。弘前紺屋町の魚商平尾三郎次の子で、7、8歳のころ、専ら絵を描くことを遊びとしていたという。度を過ぎた熱中を心配した親に筆や硯を隠されたが、家の工事に来ていた大工の墨壺を借り、木片に絵を描き、木片が尽きればまた木を削って描き続けたという。のち松田駒水(まつだくすい)(1757~1830)に経史を学び、駒水の紹介で工藤五鳳(くどうごほう)(?~1841)、さらに五鳳の師である毛内雲林(もうないうんりん)(?~1837)に画を学んだ。また百川学庵(ももかわがくあん)(1800~1849)にも画法や文義を学んだ。30歳で父に願い出て家業を弟に譲って隠居し、40歳で平田国学の門人となり(元治元年、1864)、同門で心友でもあった鶴屋有節(つるやありよ(うせつ))(1808~1871)とともに国学を津軽に広めた人物である。なお、津軽における国学の徒の中で、もっとも初めに気吹舎門人となった(安政4年、1857)鶴屋の果たした役割については、弘前大学、のちには青山学院大学で教鞭をとり、津軽地方の近世・近代史研究に大きな影響を与えた沼田哲(さとし)氏(1942~2004)の論稿を参照されたい。(千葉一大) 【参考文献】 「津軽旧記伝」八(東京大学史料編纂所蔵) 森山泰太郎「平尾魯僊」(弘前市立図書館編集『郷土の先人を語る(7) 兼松石居・平尾魯僊・秋田雨雀』弘前市立図書館・弘前図書館後援会、1971年) 沼田哲「鶴屋有節宛平田鉄胤書翰四通をめぐって」(『弘前大学國史研究』100、1996年) 青森県史編さん近世部会編集『青森県史 資料編 近世 学芸関係』(青森県、2003年) 中川和明「幕末平田塾と地方国学の展開─弘前国学を例に─」(『書物・出版と社会変容』7、2009年) 青森県立郷土館編集・発行『平尾魯仙 青森のダ・ヴィンチ』(2013年)
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