解題・説明
|
近代に入り、西洋的な地図作製技術や製図法(ドローイング)が取り入れられ、また学校教育において概念として「地図」が導入される以前、日本においては、地図類や建築の見取図に対する呼称として「絵図」という語が用いられた。その特徴として具象的な表現、例えば、地図類の場合であれば、山、川、湖、海、道路などに絵画風の表現が加えられていることが指摘できる。 中央政府が国土の地図と土地台帳を完備することは、東洋における政治の伝統であった。我が国においては、古代律令国家が国郡図を徴収した例を『日本書紀』などの史料に見ることができるが、9世紀以降近世に入るまでの間、その伝統は長らく中絶していた。 近世に入って、豊臣政権、および江戸幕府が、全国を古代に遡る行政区画としての「国(くに)」ごとに分けて作成した巨大な絵図を「国絵図(くにえず)」という。国絵図とともに土地台帳も作成された。その最初のものは、天正19年(1591)に、豊臣秀吉が朝廷に献納するという名目で諸大名に作成・提出を命じた国絵図と御前帳(ごぜんちょう) (検地帳)である。秀吉によるこれらの徴収は、太閤検地(たいこうけんち)の成果を集大成したものであり、また、日本全土を律令国家が定めた支配の単位である国・郡の枠組み(国郡制(こくぐんせい))により掌握しようとする手段として、さらに、秀吉が推進しようとした「唐入(からい)り」(朝鮮出兵)に向けての国内総動員体制の一環として機能したものと考えられている。江戸幕府の国絵図作成事業の先駆として注目されるが、現在までこの天正の国絵図は発見されていない。 この秀吉の例に倣い、慶長9年(1604)には徳川家康が国絵図〈慶長国絵図〉・御前帳(検地帳)の作成・提出を命じている。江戸幕府は、確認されるだけで17世紀初頭の慶長、17世紀半ばの正保、17世紀末から18世紀初頭の元禄、19世紀前半の天保の4度にわたり、国絵図・郷帳(ごうちょう)の作成事業を実施している。郷帳は国絵図に付属する石高の集計帳で、その国内の各郡村の石高が列記されている。江戸幕府に提出された国絵図は、完成に複数年を要するもので、良質の料紙(りょうし)を用い、縮尺は、正保国絵図以降、6寸1里、すなわち2万1600分の1の縮尺により、狩野派(かのうは)の御用絵師が極彩色で細密に描かれた。村名や石高が明示されており、それらは、同時に作製・徴収された国ごとの「郷帳」と内容が一致する。 国絵図作成は「絵図元(えずもと)」と呼ばれる大名が作成の中心となったが、陸奥国は出羽(でわ)・越後(えちご)などとともに範囲が広かったため、国絵図は分割で作成され、弘前藩は仙台藩・盛岡藩などとともに、絵図元として自領の絵図を作成し、幕府に提出している。 天保国絵図は、江戸幕府の国絵図事業としては最後に作成された国絵図で、幕府の書庫である紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)と勘定所(かんじょうしょ)に伝来した天保国絵図原本(清絵図)が合わせて119鋪(重複を含む)現存し、国立公文書館に保存され、国指定重要文化財となっており、ウェブ上からその精密な画像を検索することが可能である(国立公文書館デジタルアーカイブズ:天保国絵図)。 天保度の国絵図事業においては、郷帳とともに諸国の大名らが作成して将軍へ献上するものであった従来の例に対し、諸国から提出された下図によって幕府自らが全国の国絵図(清絵図)を一手に仕立て上げたことが特徴のひとつとして挙げられる。また、郷帳と国絵図の改訂は別途に行われ、作業が段階的に実施された。まず天保2年(1831)11月に郷帳改訂を命じ、それを同6年に終えたあと、同年12月に国絵図改訂が命じられている。 この国絵図改訂の手順をみると、まず絵図元に対して、幕府から元禄国絵図を薄紙に淡彩で写した「切絵図」というものが渡される。切絵図とは、写図を縦長に何等分かに裁断したもので、元禄国絵図自体が大きく、修正するには扱いにくかったため、このような形での下付となった。絵図元は、その切絵図に元禄以降の街道の付け替え、新田開発の状況、村落の移動など、変動した箇所を懸紙によって修正するよう求められた。修正された下図を提出された幕府勘定所は、それに基づいて、従来同様、狩野派絵師により全国83鋪の国絵図(清絵図)各2鋪ずつを製作し、正本を幕府の書庫である紅葉山文庫に、副本を実務用として勘定所に収納したのである。 もう一つの大きな特徴として、国絵図・郷帳に記載される石高が、これまでのものが表高記載であったものが、それに加えて、新田や改出高などを含めた実際の生産力を示す内高(うちだか)(実高(じつだか))を記載するよう求められたことが挙げられる。これによって幕府は、諸国の生産力の実態を把握しようとしたが、大名側がこれに躊躇いを見せ、幕府から数次にわたる督促がなされた。結局、実高記載は徹底しなかった。 弘前藩における天保国絵図下図作成の経緯については、尾崎久美子氏が詳細かつ綿密に明らかにしており、以下の記述もその成果に拠るところが多い。弘前藩に対して、天保国絵図に国絵図改訂の命が下された年月日は定かではない。これは事業開始後、絵図元に対する通達が全国一斉に行われなかったことによる。ただし、天保7年(1836)7月8日に国絵図調方役人が任命されており、その直近に幕府からの通達があったと推測される。この後下付された御渡絵図の写が8月12日に完成し、領内における具体的な絵図作成の調査が9月上旬から11月上旬に行われた。12月から翌年5月にかけては、幕府勘定所役人と折衝しながら、調査内容を絵図内容に反映させる作業が行われ、その過程で4点の切絵図が作成された。4点のうち、当館所蔵のものが3点あり、国文学研究資料館所蔵津軽家文書に1点が含まれている。ここに示した絵図は、天保国絵図の下図と考えられる3点の絵図のうちの1点である。 これらの切絵図は、いずれも元禄国絵図をもとに津軽領を南北方向に8等分し、淡彩の彩色がされ、正本にある村高・郡高表示がない。4点の絵図は表現されている内容から、それぞれ段階を踏んで作成されていることが知られる。すなわち、もっとも初めの段階のものは、写し取った元禄国絵図に大筒台場、新たな架橋、新田開発によって増加した津軽平野の村々を懸紙に記し、また河川流路の変更、街道の新設、津軽平野外の新村、村の名前の変更・位置の移動を朱字・墨字によって直接加筆訂正したものである。次の段階のものは、地形が元禄国絵図段階のものから修正され、前の段階で懸紙に記載された事項を朱書きで直接書きこみ、また、前段階にはなく、次の段階においても記載されなかった金山・銀山の情報が記された。ただし、村名は朱字・墨書きでの書き込みとなっている。第三の段階のもの(本図)は、これも地形が元禄国絵図段階のものから修正されており、すべての村名が墨書となり、大筒台場を墨で四角く囲った内部を黄色で着色した記号で表している。一方地名の書き洩らし・誤記が多い。注目すべきは大筒台場を意識的に強調している点であり、その記号化も視覚に訴えようとする洗練された手法であると尾崎氏は考えている。江戸時代後期、幕府への奉公として沿岸諸藩に命じられた海防の充実を目に見える形で明らかにしようとしたものであったと考えることができる。 これら3点の下図を経て、国文学研究資料館蔵津軽家文書中の下図が作成されたとみられる。この下図は、地形が元禄期以来変動した地形で描かれているのはもちろんのこと、誤記や書き洩らしを修正し、村名はすべて墨書されている。この絵図を入れた箱書きから、同絵図が天保8年5月29日に幕府に提出された絵図の控図であることがわかる。通常、天保国絵図の下図は修正箇所に内容を記した懸紙を付して提出したとされるが、弘前藩の場合は修正箇所をすべて書き込み、懸紙のない修正図を提出した可能性がある。なお、同年6月20日に絵図調方役人に対して褒賞が行われている。幕府の国絵図仕立ては8月から本格化していることが知られており、弘前藩の提出はそれに先んじたものであった。 一方、提出を受けた幕府側は、清絵図を作成するにあたって、大筒台場を記号ではなく文字で所在を示し、弘前からの羽州街道を小栗山村(こぐりやまむら)(現弘前市小栗山)経由の小栗山新道ではなく、元禄国絵図において本道とされた堀越村(ほりこしむら)(現弘前市堀越)経由の堀越街道をそのまま太い朱線、すなわち本道として記載、弘前藩が省略した金銀山の記載を復活させるなど、弘前藩の下図とは異なる内容で表現している箇所があり、下図提出後も幕府側の絵図担当役人と弘前藩の絵図調方役人で折衝がなされ、清絵図が作成されたことが推定される。また三厩(みんまや)(現東津軽郡外ヶ浜町字三厩)に所在する出張陣屋の図像化、黒石(くろいし)(現黒石市)に陣屋を示す「津軽左近将監居所」などが書き加えられたことは、寛政年間(1789~1801)以降の北方情勢のなかで、弘前藩が担った海防・蝦夷地警備に伴う変化が国絵図の表現に反映されたものとして注目される。なお、清絵図、すなわち国立公文書館蔵天保国絵図・陸奥国津軽領絵図も国立公文書館デジタルアーカイブズ上で確認することができる。(千葉一大) 【参考文献】 福井保「内閣文庫所蔵の国絵図について」(『日本書誌学大系 12 内閣文庫書誌の研究』青裳堂書店、1980年) 福井保『江戸幕府編纂物 解説編』(雄松堂書店、1983年) 川村博忠『江戸幕府撰国絵図の研究』(古今書院、1984年) 川村博忠『国絵図』(吉川弘文館、1990年) 尾崎久美子「天保陸奥国津軽領絵図の表現内容と郷帳j(『歴史地理学』214、2003年) 国絵図研究会編『国絵図の世界』(柏書房、2005年) 尾崎久美子「北方の政治的コンテクストからみた天保国絵図改訂事業─盛岡藩・弘前藩を中心として─」(『歴史地理学』248、2010年) 川村博忠『江戸幕府の日本地図 国絵図・城絵図・日本図』(吉川弘文館、2010年)
|