解題・説明
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「愚耳旧聴記(ぐじきゅうちょうき)」は、延宝2年(1674)に弘前藩士添田儀左衛門貞俊(そえだぎざえもんさだとし)(1639~1701)が著した津軽為信(つがるためのぶ)の一代記だが、文学的な筆致で記され、史書というより軍記物(ぐんきもの)あるいは読本(よみほん)に属する。 著者の添田は、執筆の年に大組足軽頭となり、元禄年間(1688~1704)には家老に就任する津軽家の重臣である。添田家は承応元年(1652)、蒲生家の浪人だった貞成が津軽家に召し抱えられ、寛文4年(1664)に四男の貞俊が相続しており、為信とは直接接点がない。貞俊が為信について知り得たのは、記録・伝聞といった間接的手法によることは間違いない。 近世の軍記物は、その執筆時期によって、実際に戦をしていた永禄(1558~1570)から慶長年間(1596~1615)にかけて執筆された「戦中文学」とも呼べるもの、大坂の陣の終結により天下の帰趨が定まった「元和偃武(げんなえんぶ)」(元和元年、1615)以後寛文年間(1661~1673)にかけて、時代を回顧する形で書かれた「戦後の文学」とも呼べるもの、さらに、合戦を体験していない世代が記す批評あるいは批判の文学としての段階に分ける見方がある。その成立時期から見て「愚耳旧聴記」は、為信の没後約70年を隔て、その人物像を知る者もほぼ失われた時期に評価の対象に据えて記した「戦後の文学」に属するものといえる。 しかしながら、著者の執筆意図は、為信を単なる批評対象としたわけではなく、「名君」「良将」という当時理想とされた大名像に当てはめて描き出し、彼の生き方を後世に生きる弘前藩士の教訓の対象にしようとしたところにある。さらに本文の冒頭部分で為信を通常の人格とは違う人物として誕生させることで神格化し、成長後は「ゑひ智の良将」と位置づけることで、津軽統一ヘと導く優れた為信の才能を強調してみせている。 このような同書はその読みやすさから、領内に写本や貸借という形をとって広く読まれた。「勇者記」「津軽創業記」「津軽記」「津陽開記」「故籍見聴記」「津軽合戦記」「津軽日記」という同名異本が流布していることもそれを裏付ける。添田の意図以上に、津軽地方における「英雄」的な為信像の形成と流布に寄与した重要な書物だといえる。(千葉一大) 【参考文献】 金井圓「『土芥寇讎記』について」(同校訂『土芥寇讎記』人物往来社、1967年) 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館郷土史文献解題』(1970年) 笹川祥生「近世の軍書―近江の戦国時代を描いた作品を例として―」(国文学研究資料館編『軍記物語とその劇化』臨川書店、2000年) 千葉一大「北奥大名津軽家の自己認識形成」(『歴史評論』754、2013年)
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