解題・説明
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安永4年(1775)に弘前藩士木立要左衛門守貞(きだちようざえもんもりさだ)(1726~1801)が編集した、編年体の史書である。自序によれば、著者は幼少より歴史を好み、記録・雑史等を読むごとに世の怪異奇変を年譜として摘記しまとめていた。また、津軽郡の歴史について領内を訪ねまわり家々に伝わる旧記を収集したという。この結果、年を経て2部の記録草稿ができたが、煩雑であるので1部にまとめ、大永6年(1526)から安永4年までの記録とし、「津軽歴世録(つがるれきせいろく)」と題したとある。 本サイトに掲載した本館所蔵本は乾坤2巻本で、乾の巻は、大永6年から慶長12年(1607)まで、坤の巻は明暦2年(1656)から宝永7年(1710)に至る。しかしながら、昭和45年(1970)年に刊行された『弘前図書館蔵郷土史文献解題』において指摘されているように、同書は完本ではない。現在2冊に分かれているものは、元は1冊で乾の巻に含まれるものだった。さらに、坤の巻の表紙によれば、この巻は正徳年間(1711~1716)から始まるもので、自序に則れば安永4年までの内容を持つものであった。したがって、現存伝本は、1部の書を乾坤2巻としたもののうち、乾の巻の一部、後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)崩御と津軽家の祖光信が死去した大永6年から津軽為信が死去した慶長12年まで、坤の巻は明暦2年の恐らく途中の記事から津軽信政が死去した宝永7年(1710)までのものを2冊に分けているもので、正徳元年(1711)以降安永4年までがまとめられていた本来の坤の巻が全て欠けていることになる。後世、乾の巻の残存部分を、残されていた表紙を付けたものが現存伝本ということになるだろう。本書本来の姿と、現在の伝本の形が大きく異なっているのである。 なお、『弘前市史 藩政編』では、「津軽歴世録」を同じ著者による史書「津軽徧覧日記」や「本藩古今通観録(ほんぱんこきんつがんろく)」と同じものとしたり、また「津軽開基」「津軽根元記」「津軽元来記」「津軽合戦記」「一国治乱記」という書名の史書と同名異本としたりする説を載せているが、前者はそれぞれ別のものであり、後者は「津軽歴世録」の凡例に、津軽領内に伝わる日記留書の類の書名として挙げられているものであって、「津軽歴世録」とは全く異なるものである。 編者木立要左衛門守貞(1726~1801)は、藩の御馬役・馬術師範の家に生まれ、その道に秀でる一方で、藩内では蔵書家としても知られ、天明6年(1786)11月の蔵書数が1万1500冊余に上ったという。「津軽歴世録」「津軽徧覧日記(つがるへんらんにっき)」の序文によれば、幼少から歴史を好み、記録の収集に力を注いでおり、収集した記録や自分の日記を用い、自らの手で藩史を編むという明確な意志が早くからあったようである。彼の編んだ藩史の代表的なものが「御国旧記」、すなわち「本藩濫觴実記(ほんはんらんしょうじっき)」「津軽徧覧日記」(別稿解題参照)の編集で、これらは藩の命をうけて編纂が進められたものである。藩史編纂の功により寛政5年(1793)長柄奉行格寄合に進められ、同10年、御城付足軽頭となっている。(千葉一大) 【参考文献】 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史 藩政編』(弘前市、1963年)附録6~7頁 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年)28~33頁 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』第1巻(新人物往来社、1987年)223頁
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