解題・説明
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前近代の日本においては、地図類や建築の見取図に対する呼称として「絵図(えず)」という語が用いられた。具象的な表現、例えば、地図類の場合、建物や山、川、湖、海、道路などに絵画風の表現が加えられていることがその特徴である。 この絵図は、江戸時代前期に弘前藩において描かれた「天和書上絵図(てんなかきあげえず)」と呼ばれる絵図のなかの1枚で、現在の南津軽郡(みなみつがるぐん)藤崎町(ふじさきまち)の一部である藤崎村(ふじさきむら)の村絵図(むらえず)である。藤崎村は、津軽平野の南部、岩木川の支流浅瀬石川と平川の合流点に位置し、南北朝時代から一次史料にその名がみえる村落である。この絵図が描かれた当時は、弘前藩の代官支配地域である藤崎遣(けん)に含まれていた。 村絵図とは、近世において村落の景観を描いた地図で、大名・旗本・寺社などといった村落を支配する領主たちの必要に応じて、領主側あるいは村側が作成した。作成の意図はさまざまで、検地の際に作成されることが多いが、そのほかにも村明細帳(むらめいさいちょう)への添付、転封・改易などによる領主の交代、知行相給(あいきゅう)の明示、幕府の巡見使や藩の役人の見分、国絵図作製、土地用途の検分、米の収穫前に領主が役人を派遣し作柄から年貢高を決定する検見(けみ)、村境や入会(いりあい)の訴訟、川除・用水普請などの諸事情においても作成された。 村絵図の製作は素人の手になるものも多く、その場合には簡略な見取り図のようになってしまっていることもある。一方で、本格的に測量などを行い、方位を定めて、絵師の手によって完成された精密な絵図も多い。 天和4年(貞享元年、1684)3月14日の日付を有するこの絵図は、村境はもちろん、集落・田畑(地位(ちぐらい)も記す)・荒地・山林・道路・河川・用水・堤・寺社の位置が描かれ、場所の表現を具体的なものとすることが試みられている。絵図の中心に、黒く太い土塁が描かれ、「御本丸」と記されているのは、中世に安藤氏の居城だったとされる藤崎城の跡である。また、枝村(えだむら)として、松の木村、根子橋村、地子新田、御伝馬新田、本引御新田が絵図中に見える。 弘前藩では、貞享元年(1684)から翌年にかけて領内全域に及ぶ検地を実施した。貞享検地と呼ばれるこの検地に先立ち、弘前藩では各村落に対して村落の概況を記した書上と村絵図を作成して提出することを命じた。書上は「御蔵給地田畑屋鋪其外諸品書上帳」といい、実例として、当館所蔵(岩見文庫)の「大光寺御代官所本町村御蔵給地田畑屋鋪其外諸品書上帳」の内容を見ると、耕地について、耕作者名、耕作地の場所(字名(あざめい))と面積、地位、村高、藩の直轄地である蔵入地(くらいりち)・藩士の所領である知行地(ちぎょうち)の別が記され、他に屋敷数とその所持者・間数、寺社とその敷地面積・境内地の樹木本数、用水と樋(ひ)の数、橋の位置と数が記載されている。この書上帳は、一般に「村鑑(むらかがみ)」とか「村明細帳(むらめいさいちょう)」と呼ばれるものに当たるといえそうだが、土地利用やその面積、地位、さらに他村と不足分の高を補い合う「越石(こしこく)」と呼ばれる出入り関係の記載がなされている点からも、検地の事前準備として土地利用の把握を目指したものだといえるだろう。 一方、「天和書上絵図」と呼ばれる村絵図については、天和4年正月に藩が出した布達によって、絵図に記載する事項が定められ、これに則って作成された。それによれば、各村の村位(そんい)、耕作地・荒地・明地・寺社地・屋敷地・野原などの土地利用の実際、耕作地の地位(ちぐらい)、用水・溜池等の水利、野・芝・草・萱・雑木・杉・ヒノキ・漆などの山林利用、村境などの記載が命じられており、加えて「村絵図仕立様之事」という細目が定められている(「天和四年村絵図仕立様之帳」、青森県史編さん近世部会編集『青森県史』資料編近世2、青森県、2002年、306~308頁)。絵図が書上帳同様の目的のために作成されたことが明らかである。 この天和書上絵図は、比較的短期間のうちに藩へ正本が提出されたと考えられている。また、控図が各村の庄屋の手元に残された。宝永7年(1704)に作成された藩の絵図目録(「御絵図目録」弘前市立博物館蔵)や、天保3年(1832)作成の弘前城二の丸宝蔵の目録(「二之丸御宝蔵御書物并御道具目録」国文学研究資料館蔵)には、提出された絵図正本についての記載がない。一方、絵図正本が、天保年間(1830~1844)には藩の財政を預かる勘定所の地方席に、また嘉永年間(1848~1854)には各代官所に保管されていたことが明らかになっている。この状況から考えるに、天和書上絵図は、藩における村落支配の象徴的な形を示すものとして徴収されたのではなく、提出後は、藩の役所、あるいは出先機関において実用的に用いられていたと考えられる。明治維新後、絵図の正本は青森県庁に引き継がれ、さらに青森県立図書館に集められ、昭和20年(1945)7月の青森空襲で図書館が全焼した際にも蔵書疎開によって焼失を免れたが、翌年11月、仮県庁舎の火災で、同じ建物の一部に入っていた図書館も類焼、それを伝えた11月26日付の『東奥日報(とうおうにっぽう)』の記事によれば、焼失した書籍中に「天和画帳」というものが含まれており、これが図書館に所蔵されていた天和書上絵図の正本を指すものとみられている。 現在、我々が閲覧や津軽地方の各自治体史において目にすることができる天和書上絵図は、各村に残された庄屋の手元に残された控図か、あるいは工藤大輔氏が青森市域の事例を報告しているように、近代に入り、入会権などの山林行政の必要性から、県庁に保存されていた正本を各村で謄写したものと考えられる。(千葉一大) 【参考文献】 前野喜代治「青森県における図書館略史」(『教育学研究』第31巻4号、1964年) 木村東一郎『江戸時代の地図に関する研究』(隣人社、1967年) 大野瑞男「村絵図」(国史大辞典編纂委員会編集『国史大辞典』第13巻、吉川弘文館、1992年) 長谷川成一「津軽氏城跡の発達過程を探る基本資料の基礎的考察─「弘前并近郷之御絵図」と「天和書上絵図」─」(『平成15年度~平成17年度科学研究費補助金基礎研究(C)(2)研究成果報告書 津軽氏城跡の発展過程に関する文献資史料と遺物史料による研究』研究代表者長谷川成一、2005年) 工藤大輔「青森市内の「天和書上絵図」について─明治初期に書写された近世資史料の一断面─」(『弘前大学國史研究』125、2008年) 工藤大輔「北方史の中の津軽 30 近世の村描いた絵図」(『陸奥新報』2009年7月20日付) 青森市史編集委員会編集『新青森市史』通史編第2巻(青森市、2012年)
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