解題・説明
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この絵図は、享保3年(1718)5月9日付で、弘前藩主である津軽土佐守(信寿(のぶひさ))の名で幕府に提出された城郭修補絵図の控図である。 大名が城郭を修理するためには、幕府に申請し許可を受けることが必要であった。元和元年(1615)、江戸幕府が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)では、大名の居城修復は必ず幕府に届け出ること、また修復以外の新たな工事を禁じることが定められた。さらに、寛永12年(1635)に改訂のうえ発令された武家諸法度では、新規の城郭築城を禁じるとともに、既存の城郭における堀・土塁・石垣の修復は幕府への届け出・許可が必要となり、櫓(やぐら)・土塀・城門については元の通りに修復を行うよう定められた。すなわち、武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられていたのである。 諸大名が城郭の修復普請を行う場合、手続きとして、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。本絵図では、現在弘前公園の工業高校口として知られる西の郭南の埋門(うずみもん)に架かる橋の門側の土留を石積に変更することを願い出ており、絵図には該当箇所に朱線が引かれ、「此の所土留めの板破損仕り候(筆者注:読み下し文)」と注記されている。申請に添えられる絵図面はほぼ定型化しており、本絵図のように、ごく一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく注記された。 この絵図の提出経緯については「弘前藩庁日記(国日記)」享保3年5月8日・同29日条に詳しい。それによれば、弘前藩では藩主信寿の発意で、当時「御花畑」とも呼ばれていた西の郭の埋門の土留がそれまで板だったものを石垣積みとすることにした。そこで、幕府にうかがい出る内容を絵図に描いて、老中井上正岑(いのうえまさみね)のもとに留守居役落合大右衛門が赴いて内意を尋ねたところ、提出する書付の内容が整わない場合には許可が下りないことがあり、絵図を修正する大名もあるため、まず幕府右筆の意見を聞くようにという示唆を井上家の用人からうけたという。 幕府の右筆には、幕政の先例を調査して老中に報告する、いわば老中の秘書官のような役回りを担う奥右筆と、将軍の御内書、老中奉書の執筆や、幕府の日記(「江戸幕府日記」)を記し、大名・旗本の名簿(分限帳)といった文書管理を行う表右筆の二つがあった。弘前藩は幕府表右筆の大橋藤蔵を頼ることにし、その許を落合が訪ね相談した結果、大橋から上役である表右筆組頭小池与右衛門へ絵図を内見させて、絵図に書き付ける内容についての示唆を得ることができた。幕府に提出する書類であるために、書式文面に通じた奥右筆からのアドヴァイスを必要としたと考えられる。 この示唆を受けて下絵図が作成され、再度井上の許にそれを持参して内見をうけ、問題もないので伺い出るようにという指示を受けた。そこで5月9日に清書した絵図と願書を提出するよう、信寿が落合に命じた。正式な提出については、豊前(ぶぜん)小倉(こくら)(現福岡県北九州市小倉区)藩や出羽庄内(しょうない)藩の留守居役にも問い合わせ、他大名家の通例に倣って、藩主の自らが老中の許に赴いて提出する形をとらず、留守居役が月番老中の許へ持参することとし、藩主は、老中の屋敷に廻勤(かいきん)(大名が定期的に幕府高官の屋敷を訪ね、挨拶や用談を行うこと)する際に、月番老中または老中の用人に対して、願意についてさらに陳情する形をとることにしたという。 このように幕府に城郭修補願を提出する際には、老中の内見、幕府の右筆との折衝、他藩の留守居役への先例問い合わせ等がなされ、綿密なすりあわせの後に、正式な願書の提出に至っていることがわかる。(千葉一大) 【参考文献】 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
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