解題・説明
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享保4年(1719)、弘前藩は、本丸戌亥櫓(いぬいやぐら)下の櫓台石垣が1か所崩れ、1か所に孕(はら)み(石垣が内部からの圧力で押し出され、外側に弧を描くように膨らませてゆくメカニズム)を生じたため、石垣を築き直すことを江戸幕府に申請し、許可された。本史料は、幕府老中が連署し申請内容を許可した旨の老中連署奉書(ろうじゅうれんしょほうしょ)である。 江戸幕府の定めた武家諸法度の規定によって、大名が城の普請=土木を伴う工事を行う場合には、厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも大名が届け出を行うことが義務づけられていた。 大名が城郭の修復普請を行う場合には、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。申請に添えられる絵図面はほぼ定型化しており、本絵図のように、一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく注記された。 申請をうけた幕府側は、老中連署奉書によって修復を許可し、その後着工が可能となる。城普請を許可する老中連署奉書には特色があり、伝達内容が後日の証拠として年次特定を必要となるため、寛永5年(1628)前後のものから、日付の右肩に元号・年数・十二支を明記した「付年号(つけねんごう)」が付され、また寛永10年代以降には奉書の書き出しに城郭名が明記されるようになる。 実際の規定運用面では、寛永12年の武家諸法度改訂以降、新規の普請・作事等城郭の現状変更を伴う申請は将軍による決済が必要で、石垣修築等の普請や再建等の作事は老中の許可事項とされた。幕府は、原則的には修築申請を許可していたが、老中奉書に元通りに普請することを条件として明記した。一方、櫓・城門・土塀などの城郭建築の修理は土木工事より規制が緩かったが、災害や老朽化による再建は、従来通りに施工することが求められた。 本奉書は、「弘前藩庁日記(江戸日記)」によれば、享保4年2月18日に「御連書(ごれんしょ)」(宛所を複数記した書簡のこと)すなわち修補願書と絵図を提出したところ、同月29日に発給されたもので、弘前城本丸戌亥(北西)の石垣について、修補絵図の朱線で示された範囲の崩壊1か所、孕み1か所の修復を行うことを許可するという内容であり、宛所は当時の弘前藩主津軽土佐守(とさのかみ)(信寿(のぶひさ))、奉書に連署した老中は井上河内守正岑(かわちのかみまさみね)、戸田山城守忠真(やましろのかみただざね)、水野和泉守忠之(いずみのかみただゆき)、久世大和守重之(くぜやまとのかみしげゆき)の4人である。(千葉一大) 【参考文献】 日本歴史学会編『概説古文書学』近世編(吉川弘文館、1989年) 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 笠谷和比古『近世武家文書の研究』(法政大学出版局、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
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