解題・説明
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明和3年(1766)の正月から2月にかけて、津軽地方はたびたび地震に襲われた。なかでも正月28日酉の刻(午後6時頃)に発生した「明和の大地震」は、青森・板屋野木(いたやのき)(現青森県北津軽郡板柳町)・黒石・浪岡方面が特に激しい揺れに見舞われ、弘前やその周辺がそれに次いだ。地震で潰れた家から火災が発生し、青森や黒石、板屋野木で火災となった。2月4日段階で藩が把握した領内における被害は、圧死1054人(黒石領56人)、焼死301人(前同46人)、負傷153人、死馬447頭(黒石領49頭)、役所倒壊14件、家屋全壊5497戸(黒石領394)、同半壊355戸、棚店全壊682軒、土蔵全壊198棟、家屋焼失250戸(黒石領26戸)、土蔵焼失65戸、寺院倒壊30件(黒石領5件)、同焼失4件(前同1件)、堂社壊焼17件(前同2件)、堤防決壊13か所、橋損壊134か所(黒石領34か所)、山崩れ2か所にのぼった。 災害の際、大名が幕府に提出する罹災届には、災害発災当初に災害発生をまず届け出るという速報性を重視した「一先之御届」と、被災状況を事項ごとに整理し数値を具体的に挙げた「御吟味之上御届書」の2種類あるが、「弘前藩庁日記(江戸日記)」によれば、弘前藩は前者を2月13日に月番老中松平武元(たけちか)、後者を3月9日に月番老中の松平康福(やすよし)と先月の月番である松平武元に提出している。 この地震で、弘前城では本丸御殿をはじめ、櫓5か所・門7か所・門・役所・蔵が倒壊・破損し、土居・石垣の崩壊が各所で起こり、二の丸屋形・三の丸屋形でも大きな被害が発生した。その他塀柵立も大方倒壊または破損し、太鼓櫓も破壊して時の大鼓を打つことができなくなり、勘定所・紙蔵なども大破した。このために、本丸御殿内にある御用所は本丸の白州に仮屋を建て、また藩の諸役所もすべて仮屋における執務を余儀なくされることになった。この年藩主津軽信寧は帰国の順年であったが、本丸御殿の修築が間に合わず、急遽3月28日から三の丸屋形を補修し、4月28日にほぼ完成にこぎ着け、5月15日の着城に間に合わせた。 大名が城郭を修理するためには、幕府に申請し許可を受けることが必要であった。元和元年(1615)、江戸幕府が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)では、大名の居城修復は必ず幕府に届け出ること、また修復以外の新たな工事を禁じることが定められた。さらに、寛永12年(1635)に改訂のうえ発令された武家諸法度では、新規の城郭築城を禁じるとともに、既存の城郭における堀・土塁・石垣の修復は幕府への届け出・許可が必要となり、櫓(やぐら)・土塀・城門については元の通りに修復を行うよう定められた。すなわち、武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられていたのである。 諸大名が城郭の修復普請を行う場合、手続きとして、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。申請に添えられる絵図面はほぼ定型化しており、本絵図のように、ごく一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく注記された。 弘前藩でも明和3年7月に修補絵図を作成した(別稿参照)。これらの絵図には櫓・門・塀などの倒壊状況と、その箇所について朱線でその位置が示されている。一方、城郭のうち防御施設としての役割を持つ石垣や土塁(土居)についての言及は、被害が多数発生したにもかかわらず、しめされていない。 城郭修補の申請は、事前に幕府役人や老中に対する伺があり、彼らからの意見などをうけて、その後正式に申請がなされる。申請をうけた幕府側は、老中連署奉書によって修復を許可し、その後着工が可能となる。城普請を許可する老中連署奉書には特色があり、伝達内容が後日の証拠として年次特定を必要となるため、寛永5年前後のものから、日付の右肩に元号・年数・十二支を明記した「付年号(つけねんごう)」が付され、また寛永10年代以降には奉書の書き出しに城郭名が明記されるようになる。 正式な申請については、本史料の明和3年10月17日条に経緯が詳細に述べられている。まず9月23日、幕府老中にあてた修補願書と絵図2枚を月番老中阿部伊予守正右(まさすけ)のもとに弘前藩江戸留守居役(御聞役)杉山小藤太が持参、提出した。10月1日に阿部家の用人より留守居役への呼び出しが有り、翌日杉山が参上すると、用人から杉山に修復を許可する旨の老中連署奉書と附札が付された修補絵図1枚が返却された。 老中奉書の文言は以下の通りである。
陸奥国弘前城本丸南之方石垣角折廻壱ヶ所、同所西之方石垣壱ヶ所、北之郭東之角土居折廻壱ヶ所、同所北之方角土居折廻壱ヶ所、西之郭南之方土居弐ヶ所、二之郭南之方土居弐ヶ所、同東之方土居壱ヶ所、四之郭丑寅之方角土居折廻壱ケ所、或孕或窪地切崩候ニ付築直之事、絵図朱引之趣得其意候、願之通以連々如元可有普請候、恐々謹言、 | 明和三戌 十月朔日 | 阿部伊予守 松平周防守 松平右京大夫 松平右近将監 | 津軽出羽守殿 | | 以上のように、幕府は本丸南方の石垣角折り回し1か所、同西方石垣1か所、北の郭東の角土居折り回し1か所、同所北の方土居折り回し1か所、西の郭南方土居2か所、二の丸南方土居1か所、同所東方土居1か所、四の郭丑寅(北東)の土居折り回し1か所についての補修を絵図で示した通りに行うよう命じている。連署している老中は、松平右近将監武元(たけちか)、松平右京大夫輝高(てるたか)、松平周防守康福(やすよし)と阿部正右の4人である。 ちなみに、寛永12年の武家諸法度改訂以降、新規の普請・作事等城郭の現状変更を伴う申請は将軍による決済が必要で、石垣修築等の普請や再建等の作事は老中の許可事項とされた。幕府は、原則的には修築申請を許可していたが、老中奉書に元通りに普請することを条件として明記した。一方、櫓・城門・土塀などの城郭建築の修理は土木工事より規制が緩く、災害や老朽化による再建は、従来通りに施工することが求められた。例えば地震によって建築物に被害が生じた場合、修復などは本来届け出不要であったが、修補絵図で明らかなように、弘前藩では櫓・門・塀の作事を伴う修復について幕府に届け出を行っている。なお、城主が居住する御殿や蔵・番所などは城郭建築とはみなされず規制対象外だった。大きな被害を受けた本丸御殿や二の丸屋形・三の丸屋形についての言及が修補絵図や老中奉書にないのはこのためである。 幕府の決裁が済んだことにより城の修補が本格的に始まったが、この修理は、その後数年に及ぶほどの大規模なものとなった。11月に城郭廻の修理を一応終り、翌4年3月に本丸御殿の普請斧立初めを行い、白州の向いに普請小屋をたて、延べ5万8000人を動員して、11月に表座敷の工事が完了し、御用所も仮屋から移った。御殿がすべて落成したのは明和5年4月24日のことである。西坂門の修補は明和6年、同8年5月から6月にかけて四の郭北門(亀甲門)と番所の補修再建、安永3年(1774)3月から5月にかけては未申櫓の修補、さらに丑寅櫓・太鼓櫓の修補が安永4年3月から6月にかけて行われた。(千葉一大) 【参考文献】 森林助『津軽弘前城史』(弘前図書館、1931年) 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』中巻(陸奥新報社、初版1970年、改訂新版1973年) 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
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