解題・説明
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本史料は、天明元年(1781)11月に作成され、幕府に提出された弘前城の城郭修補絵図を作成する際に作られた下書きと考えられる絵図である。 元和元年(1615)、江戸幕府が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)では、大名の居城修復は必ず幕府に届け出ること、また修復以外の新たな工事を禁じることが定められた。さらに、寛永12年(1635)に改訂のうえ発令された武家諸法度では、新規の城郭築城を禁じるとともに、既存の城郭における堀・土塁・石垣の修復は幕府への届け出・許可が必要となり、櫓(やぐら)・土塀・城門については元の通りに修復を行うよう定められた。すなわち、武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられたのである。 諸大名が城郭の修復普請を行う場合には、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。申請に添えられる絵図面はほぼ定型化しており、本絵図のように、ごく一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく注記された。 申請をうけた幕府側は、老中連署奉書によって修復を許可し、その後着工が可能となる。城普請を許可する老中連署奉書には特色があり、伝達内容が後日の証拠として年次特定を必要となるため、寛永5年前後のものから、日付の右肩に元号・年数・十二支を明記した「付年号(つけねんごう)」が付され、また寛永10年代以降には奉書の書き出しに城郭名が明記されるようになる。 実際の規定運用面では、寛永12年の武家諸法度改訂以降、新規の普請・作事等城郭の現状変更を伴う申請は将軍による決済が必要で、石垣修築等の普請や再建等の作事は老中の許可事項とされた。幕府は、原則的には修築申請を許可していたが、老中奉書に元通りに普請することを条件として明記した。一方、櫓・城門・土塀などの城郭建築の修理は土木工事より規制が緩かったが、災害や老朽化による再建は、従来通りに施工することが求められた。なお、城主が居住する御殿や蔵・番所などは城郭建築とはみなされず規制対象外だった。 この絵図は、城域全体を描き、普請箇所を朱線で示してはいるが、注記が貼札などで修正され、また修補絵図では本来城域が彩色されているはずであるのに、普請箇所の堀のみが水色で示されているだけであって、絵図作成前の下書きと考えられる。 絵図に書き込まれた「陸奥国弘前城池端通損所之覚」によれば、本丸西側の堀の土留めが従来は板であったものを、「先年地震」、すなわち明和3年(1766)に発生した大地震以来損壊したため、絵図において朱線で示されている堀の西側長さ96間(約175メートル)、同じく南側12間(約22メートル)、同じく東側長さ12間、併せて3か所の土留めを板から自然石に変えて修復を行いたいこと、さらに修復完了後、本丸西側の堀の残る場所でも同様に土留め板が損じた場合には「連々」、すなわち継続して同様の工事を行いたいと願い出ている。弘前藩では天明元年に老中松平右京大夫輝高(てるたか)のもとに修補願書を提出したが、その後松平輝高から享保3年(1718)に弘前藩が西の郭南の埋門(うずみもん)に架かる橋の門側の土留を石積に変更することを願い出た際の修補許可について問い合わせがなされている。この修補願は天明2年2月6日に申請を許可する老中奉書が弘前藩に出されている。(千葉一大) 【参考文献】 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
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