文書名
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弘前城本丸櫓取建願之通仰付之儀御奉書
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文書名(カナ)
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ヒロサキジョウ ホンマルヤグラ トリタテネガイ ノ トオリ オオセツケ ノ ギ ゴホウショ
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文書名(ローマ字)
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Hirosakijo honmaruyagura toritatenegai no tori osetsuke no gi gohosho
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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差出・作成者(カナ)
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差出・作成者(ローマ字)
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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作成年終
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数量
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1通(包紙2)
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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本文41cm
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寸法(横)
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本文56.5cm
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材質
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形態に関する注記
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外包紙28×40.5cm
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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文化5年12月16日許可
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内容年終
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内容
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内容(カナ)
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内容(ローマ字)
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解題・説明
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史料名にある「奉書(ほうしょ)」とは、身分の高い人物が、低い身分の者に対して意志を伝達する場合、前者の身近に仕える家臣がその意を奉じて発行する文書の形態を指す。本史料は奉書の一種類である老中奉書(ろうじゅうほうしょ)と呼ばれるもので、発信者である江戸幕府の老中が、将軍や前将軍・将軍の世子の意を奉じて宛所に下達した文書である。この場合、奉書に記された内容は、将軍・前将軍・将軍の世子(せいし)の命によるものと見なされた。その用途は、大名の献上物に対する返礼として出される儀礼的なものと、重要な法令伝達、手伝普請下命・火の番の任命などの個別の大名への達、大名諸家よりの城郭修復申請に対する許可、参勤時期伝達、江戸城への登城召しなどの政治的命令をなすものに大別される。 様式面から見ると、料紙としては、楮で作られた最上質紙の一つ、奉書紙(ほうしょし)が用いられている。候文の使用や書き止めの「恐々謹言」という特徴的な文言などに書状の形式をもっていること、一般的に、1枚の紙を上下二つ折にしている折紙(おりがみ)であること(ただし、献上の返礼などでは料紙の全紙を使う竪紙(たてがみ)が用いられ、登城召しには折り目にそって横に裁断した切紙(きりがみ)が用いられる)、日付は年号を有さず月日のみであることといった特徴が挙げられる。通常は老中全員が連署したが(老中連署奉書(ろうじゅうれんしょほうしょ))、月番老中(つきばんろうじゅう)制採用以降、儀礼的なものや軽い用件の伝達といった場合には月番老中一判となった。 元和元年(1615)、江戸幕府が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)では、大名の居城修復は必ず幕府に届け出ること、また修復以外の新たな工事を禁じることが定められた。さらに、寛永12年(1635)に改訂のうえ発令された武家諸法度では、新規の城郭築城を禁じるとともに、既存の城郭における堀・土塁・石垣の修復は幕府への届け出・許可が必要となり、櫓・土塀・城門については元の通りに修復を行うよう定められた。すなわち、武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられたのである。 諸大名が城郭の修復普請を行う場合には、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。申請に添えられる絵図面はほぼ定型化しており、ごく一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく記載された。申請をうけた幕府側は、将軍の裁可を得て、本史料のような老中連署奉書によって修復を許可し、その後着工が可能となる。城普請を許可する老中連署奉書には特色があり、伝達内容が後日の証拠として年次特定を必要となるため、寛永5年前後のものから、日付の右肩に元号・年数・十二支を明記した「付年号(つけねんごう)」が付され、また寛永10年代以降には奉書の書き出しに城郭名が明記されるようになる。 実際の規定運用面では、寛永12年の武家諸法度改訂以降、新規の普請・作事等城郭の現状変更を伴う申請は将軍による決済が必要で、石垣修築等の普請や再建等の作事は老中の許可事項とされた。幕府は、原則的には修築申請を許可していたが、老中奉書に元通りに普請することを条件として明記した。一方、櫓・城門・土塀などの城郭建築の修理は土木工事より規制が緩かったが、災害や老朽化による再建は、従来通りに施工することが求められた。なお、城主が居住する御殿や蔵・番所などは城郭建築とはみなされず規制対象外だった。 本史料は、文化5年(1808)12月16日付で、弘前藩主津軽寧親(つがるやすちか)(越中守)に宛てた江戸幕府老中連署奉書で、老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)・牧野忠精(まきのただきよ)・土井利厚(どいとしあつ)・青山忠裕(あおやまただひろ(ただやす))の連署により、弘前城本丸の「巽之方櫓」1か所、「坤之方櫓」1か所、「乾之方櫓」1か所の計3棟について、先年の火災によって焼失したため、絵図記載通り、以前のごとく建てることを許可するという内容である。現在弘前城本丸にある「天守」は、この願い出により造営されたものだが、弘前藩からの12月11日付修復申請願書(国文学研究資料館蔵津軽家文書)や、造営を許可した老中奉書の中に、「天守」の文字はない。弘前藩では長らく「仮櫓」としていた3か所の櫓を「新規の事には御座なく」として建造を届け出、また、幕府の許可もあくまで火災で焼失した「櫓」の再建に対して出されており、「天守」の新築は認めていない。 築城当初、弘前城本丸に存在した5層の天守は、寛永4年(1627)9月5日、落雷による火災と、内部に保管された硫黄・煙硝(えんしょう)(鉄砲で用いる黒色火薬の原料)の爆発で失われた(「津軽一統志」八)。願書や老中奉書にいう先年の火災とはこの時のことを指すもののようである。願書において弘前藩は「櫓」の再築理由として、乾の方角(=北西)にある櫓台が高所にあり、領内・海辺をも見通せる方角であるからだと主張している。しかし、現在の「天守」があるのは正反対の巽の方角(=南東)である。加えて、弘前から陸奥湾や日本海の海辺を見渡すのはどう見ても不可能である。また弘前藩は「新規の事には御座なく」と願書に記したが、棟上げ当時の棟札(むなふだ)(天守内の弘前城史料館に展示)には「御櫓新規御造営」とあり、既存建物の修築でないことは明らかである。幕府は長らく城郭修築を規制対象としてきたが、弘前藩がその枠を乗り越えるためには、抜け道となる論理が必要だった。つまり、旧来の「櫓」を「元の如く取り建て」、海への眺望を確保するという名目を立てたのは、当時、重要な政策課題とされていた海防問題と関連付けることで説得力が得られると期待したからで、一種のレトリック(修辞)とみることができる。 本丸巽櫓の普請は、櫓の土台となる石垣の普請が文化6年4月初旬から始まり、6月に完工した。小石川透(こいしかわとおる)氏によれば、石垣の石材は、高い技術を持つ野内(のない)(現青森市野内)の石切職人たちによって、岩木川西岸の葛原村(くずはらむら)(現弘前市葛原)周辺と推測されている「葛原山」という石切丁場から切り出された。翌年4月には、家臣に対して禄高100石当たり1年に人足10人を「御手伝人夫」として差し出すか、割合に応じて人足の賃銭を拠出することが命じられた(「封内事実秘苑」廿五廿六)。この結果、普請の負担は民衆にも波及することになったのである。7月には、家老の津軽監物親守(つがるけんもつちかもり)が工事の総責任者となり、用人貴田十郎左衛門惟邦(きだじゅうろうざえもんこれくに)を普請奉行とする工事関係者が任命され、同月8日に地鎮祭、10日に立柱、10月29日に棟上げが行われた。文化8年3月にはほぼ完成し、同月16日には藩主津軽寧親の見分が行われている(前掲「封内事実秘苑」)。 城は本来、戦闘施設であった。しかし、豊臣秀吉・徳川家康の天下統一後は性格が変わり、居住する権力者の象徴と見なされるようになった。特に「天守」は、安土城などに見られた居住空間としての存在から、城の「飾り」という装置としての機能に変貌した。本丸巽櫓を築くにあたって、山鹿流軍学に基づく建物の雛形が作られたが、それは「天守」と同様の建築の姿だったという(前掲「封内事実秘苑」)。天守同様の姿であった本丸巽櫓にも、藩主権力の「飾り」としての側面があったと考えられる。 幕府は蝦夷地警備の代償として、警備を負担した弘前藩の領知高を、文化2年(1805)5月15日、4万6000石から7万石とし(「弘前藩庁日記〈国日記〉」文化2年5月24日条)。さらに同5年12月18日、10万石とした(「弘前藩庁日記〈国日記〉」文化6年正月1日条)。いわゆる「文化の高直し」である。高直りの際の家臣への自筆書付(「御自筆之写」弘前市立弘前図書館蔵)を読むと、寧親は、藩政改革に取り組んだ先代藩主津軽信明(つがるのぶはる(のぶあきら))と自らを比較し、この高直しを信明の業績に引けを取らないものと位置付けるとともに、領内海防・蝦夷地警備遂行により一層注力することを求めている。本丸巽櫓の造営と同じ時期、弘前城では三の丸屋形の庭園整備も行われた。この作庭は、江戸から庭師が下向し、弘前近隣の山から巨石を取り、家臣・在町から庭木を数百本買い取るなど、大がかりなものとなった(前掲「封内事実秘苑」)。家臣・領民を巻き込んで進められた弘前城の整備は、高直しを契機に寧親が自らの地位固めと藩主権力強化を図った動きの一環と捉えることができよう。 現在、弘前城天守と呼ばれている本丸巽櫓は、本丸東南隅に建つ3重3階で、建築の形状としては独立形天守と呼ばれるものとなっている。しかし、建築当初は「御櫓脇東通」に塀や多聞櫓(たもんやぐら)があり、それらには狭間(さま)が切られていた(前掲「封内事実秘苑」)。1層目は間口6間・奥行5間、2層目は間口5間・奥行4間、3層目は間口4間・奥行3間である。屋根は銅瓦で葺かれている。壁面は大壁(おおかべ)といって、外壁は柱を見せず漆喰で塗り込めているが、内壁は柱と柱の間に壁が収まるつくりとなっている。外観は二方正面といって、堀に面する東・南面は、壁面に縦長の矢狭間を開け、1・2階には破風や懸魚(げぎょ)を白漆喰塗とした切妻屋根をもつ張出を設けている。一方、本丸側の北・西面は質素に作られている。現存天守として数えられる12棟の一つで、東北地方では唯一の遺構であり、昭和12年(1937)7月29日付で国の重要文化財に指定されている。(千葉一大) 【参考文献】 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』中巻(陸奥新報社、1970年、改訂新版1973年) 日本歴史学会編『概説古文書学』近世編(吉川弘文館、1989年) 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 青森県教育委員会編集・発行『青森県の文化財』(1997年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 笠谷和比古『近世武家文書の研究』(法政大学出版局、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 滋賀県立安土城考古博物館編・発行『信長の城・秀吉の城─織豊系城郭の成立と展開─』(2006年) 千葉一大「北方史の中の津軽 26 弘前城の『天守』再建」(『陸奥新報』2009年5月18日付) 長谷川成一監修『弘前城築城四百年 城・町・人の歴史万華鏡』(清文堂出版、2011年) 千葉一大「北方史の中の津軽 70 10万石へ高直し実現」(『陸奥新報』2011年5月16日付) 小石川透「北方史の中の津軽 83 優先された石切事業」(『陸奥新報』2011年12月26日付) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年) 弘前市教育委員会編集・発行『弘前の文化財』(2017年)
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解題・説明(英語)
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来歴(英語)
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所蔵機関
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原資料の所在地
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資料番号
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津軽家-29
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管理記号
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TK215-54
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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城郭補修資料
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資料分類(大分類)
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津軽家文書
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資料分類(中分類)
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