解題・説明
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元和元年(1615)、江戸幕府が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)では、大名の居城修復は必ず幕府に届け出ること、また修復以外の新たな工事を禁じることが定められた。さらに、寛永12年(1635)に改訂のうえ発令された武家諸法度では、新規の城郭築城を禁じるとともに、既存の城郭における堀・土塁・石垣の修復は幕府への届け出・許可が必要となり、櫓・土塀・城門については元の通りに修復を行うよう定められた。すなわち、武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられたのである。 諸大名が城郭の修復普請を行う場合には、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。申請に添えられる絵図面はほぼ定型化しており、本絵図のように、ごく一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく記載された。 申請をうけた幕府側は、老中連署奉書によって修復を許可し、その後着工が可能となる。城普請を許可する老中連署奉書には特色があり、伝達内容が後日の証拠として年次特定を必要となるため、寛永5年前後のものから、日付の右肩に元号・年数・十二支を明記した「付年号(つけねんごう)」が付され、また寛永10年代以降には奉書の書き出しに城郭名が明記されるようになる。 実際の規定運用面では、寛永12年の武家諸法度改訂以降、新規の普請・作事等城郭の現状変更を伴う申請は将軍による決済が必要で、石垣修築等の普請や再建等の作事は老中の許可事項とされた。幕府は、原則的には修築申請を許可していたが、老中奉書に元通りに普請することを条件として明記した。一方、櫓・城門・土塀などの城郭建築の修理は土木工事より規制が緩かったが、災害や老朽化による再建は、従来通りに施工することが求められた。なお、城主が居住する御殿や蔵・番所などは城郭建築とはみなされず規制対象外だった。 文政13年(天保元年、1830)8月、津軽では断続的に雨が降り、河川の水位は高くなっていた。16日暁前より大雨となり、岩木川は未曾有の大出水といわれる事態となった。やがて、二階堰の水門と土手が20間ほど破れ、旧樋ノ口川の流路に沿って城下の下町と呼ばれる地区に濁流が押し寄せ、広範囲に浸水した。被害は弘前城内にも及び、西堀から水が溢れて西の郭に達し、土塁(土居(どい))、塀、柵などが崩れ、堀にも土砂が流入し、また鷹部屋が浸水、作事方の資材が流出するなどの被害が発生した。別名「下町流れ」と呼ばれるこの洪水は、翌日夜五つ時以降落水し、その日のうちに完全に水が引いたという。下町の被害は流失20戸、半壊21戸、溺死39人を数え、城下の下町と中町をあわせた浸水家屋は家中・扶持人あわせて800戸に及んだという。 本図は、その書き込みなどから幕府に対して提出された城郭修復絵図の下絵図ないし控図と考えられるが、その記載によれば、この水害で弘前城が被った被害は次の通りである。 ・本丸南の方の堀土居、幅7間ほど欠け崩れ ・三の郭西門外の堀土居、幅4間ほど欠け崩れ ・西の郭堀土居、幅21間ほど欠け崩れ ・西の郭南方の堀の土留、幅43間ほど欠け崩れ ・西の郭南方の堀土居が土留とあわせて幅7間ほど欠け崩れ、土居上の土塀が8間ほど欠け崩れ、埋門1か所、番所・橋ともに流出、橋の下8間四方ほどが深さ5尺程度穿たれる ・四の郭西方の堀土居が土留とあわせて幅17間ほど欠け崩れ、土居上の柵も20間ほど破損 ・四の郭西方の堀土居が上記とは別箇所で幅8間ほど欠け崩れ、土居上の柵も12間ほど破損 ・四の郭西方の堀の土留が幅6間ほど欠け崩れ ・四の郭西方の別箇所の堀の土留が幅17間ほど、また柵も15間ほど破損 ・四の郭北方の堀の土留が幅3間ほど欠け崩れ ・四の郭北門(亀甲門)橋、門寄りの土留が幅6間ほど欠け崩れ、また門の升形内が3間×4間、深さ3尺程度穿たれる ・四の郭北側の堀(亀甲町側の堀)に土砂が流れ込み、所々埋まる ・四の郭東側の二階堰上に設けられた柵が13間ほど破損 修補箇所を示した絵図は、まず弘前で下絵図などが作成されて江戸に送られ、天保元年12月にまず幕府の表右筆組頭竹村澄八郎に対して、江戸において弘前からの絵図を許に作成された下絵図が差し出され、絵図の記載内容について問い合わせが行われている。幕府からの許可に至るまでの経緯を記した「弘前藩庁日記(国日記)」天保2年3月20日条によれば、それを踏まえて、2月2日に月番老中水野忠成に修補箇所などを記載した伺書と下絵図を提出して、この内容で修補願書・絵図を提出して良いか伺い出ている。これに対して、同月10日に水野の側から弘前藩留守居役の呼び出しがあり、それに応じて留守居役比良野文蔵が出頭したところ、下絵図にこの通りに調えるようにという内容の附札を付す形で、伺書・下絵図と同内容の書面提出についての了解が得られた。弘前藩では同月16日正式な修補絵図と控絵図、正式な修補願書と願書の控を月番老中の許に提出したところ、3月3日に水野から留守居役への呼び出しがあり、留守居役の助役徳永可助が赴いたところ、伺書の写が返却され、さらに申請内容を許可する老中連署奉書が下付された。弘前へは伺書の写、奉書にて願い済みの儀についての別紙1通、水野の附札が付された下絵図1枚、さらに弘前で作成され送られた下絵図1枚がまとめて送られたと記されている。(千葉一大) 【参考文献】 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』下巻之壱(陸奥新報社、1973年) 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
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