解題・説明
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本史料は嘉永3年(1850)7月に幕府に提出された弘前城の城郭修補絵図の写しであり、二の丸坤(ひつじさる)(未申)にある櫓が大破し、櫓台石垣1か所の孕みともども修復したいという内容である。 櫓(やぐら)とは、矢倉とも書かれる。櫓という文字は、近世初期のおわりから同中期にかけて、軍学者の漢学の素養が深まるにつれて変化を遂げたという経緯があるとされる。遠方や周囲を展望する設けられた物見の高い楼閣であり、城郭では弓矢などの武具、兵糧、城内で用いる諸用具等を納めることも多い。近世城郭のそれには、矢狭間(やはざま)・鉄砲狭間(てっぽうはざま)・石落としなどがつき、ここから城郭に取りつく敵を攻撃し、物見に役に立つように造られたものである。 櫓のうち隅櫓は、城の曲輪の隅に立てた櫓である。弘前城二の丸には、現在、丑寅櫓(うしとらやぐら)、辰巳櫓(たつみやぐら)、未申櫓(ひつじさるやぐら)の計3棟の隅櫓がある。この3棟は修補の手は加えられているが、築城当初のものである。いずれもわずか1.5m程の低い石垣を土台に、土塁上に立ち、3層3階で白漆喰塗りである。屋根は入母屋造りで、銅板葺(当初は栩(とち)葺)である。ほとんど同じ形、同じ大きさで、1・2層は同じ大きさ(方四間=7.8m)で1階屋根は四方が庇の腰屋根、2階の入母屋の上に半間ほど下の階より小さな3階が乗る形である。このうち、二の丸の南西隅に建つ未申櫓は元禄12年(1699)に修復された旨の棟札が残されている。 元和元年(1615)、江戸幕府が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)では、大名の居城修復は必ず幕府に届け出ること、また修復以外の新たな工事を禁じることが定められた。さらに、寛永12年(1635)に改訂のうえ発令された武家諸法度では、新規の城郭築城を禁じるとともに、既存の城郭における堀・土塁・石垣の修復は幕府への届け出・許可が必要となり、櫓・土塀・城門については元の通りに修復を行うよう定められた。すなわち、武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられたのである。 諸大名が城郭の修復普請を行う場合には、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。申請に添えられる絵図面はほぼ定型化しており、本絵図のように、ごく一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく記載された。本絵図でも二の丸南西部の櫓に注記が付されて、櫓台石垣が高さ4尺・幅6間余が孕んでいる旨が記されている。 申請をうけた幕府側は、老中連署奉書によって修復を許可し、その後着工が可能となる。城普請を許可する老中連署奉書には特色があり、伝達内容が後日の証拠として年次特定を必要となるため、寛永5年前後のものから、日付の右肩に元号・年数・十二支を明記した「付年号(つけねんごう)」が付され、また寛永10年代以降には奉書の書き出しに城郭名が明記されるようになる。 実際の規定運用面では、寛永12年の武家諸法度改訂以降、新規の普請・作事等城郭の現状変更を伴う申請は将軍による決済が必要で、石垣修築等の普請や再建等の作事は老中の許可事項とされた。幕府は、原則的には修築申請を許可していたが、老中奉書に元通りに普請することを条件として明記した。一方、櫓・城門・土塀などの城郭建築の修理は土木工事より規制が緩かったが、災害や老朽化による再建は、従来通りに施工することが求められた。なお、城主が居住する御殿や蔵・番所などは城郭建築とはみなされず規制対象外だった。(千葉一大) 【参考文献】 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』中巻(陸奥新報社、1970年、改訂新版1973年) 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 青森県教育委員会編集・発行『青森県の文化財』(1997年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年) 弘前市教育委員会編集・発行『弘前の文化財』(2017年)
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