更科紀行 芭蕉自筆稿本

原本の画像を見る


 一
 さらしなの里おはすて山の
 月見事しきりにすゝむる秋
 風の[身にしみ(取り消し線)]心に吹さはきて
 とも[に(挿入)]風雲の情をくるはすもの
 又ひとり越人と云木曾路ハ山深
 く道さかしく旅寝の力も心
 もとなしと荷兮子が奴僕
 をしておくらすをの/\
 心さし尽すといへ共羈旅の事
 心得ぬさまにて共におほつかなく
 もの事のしとろにあとさき
 なるも中々におかしき事のみ
 多し何々といふ処にて
 六十はかりの道心の僧おもしろ
 けもおかしけもあらすたゝむつ/\
 としたるか腰たはむまて物おひ
 息ハせはしく足ハきさむやうに
 あゆみ来れるを
 二
 ともなひける人のあはれかりてをの
 /\肩にかけたるものともかの
 僧のおひねものとひとつにからみて
 馬に付て我を其上にのす
 高山奇峰頭の上におほひ重りて
 左りは大川なかれ岸下の千尋の
 おもひをなし尺地も平かなら
 されは鞍のうへ静かならす只
 あやうき煩のみやむ時なし
 桟はし寝覚なと過て
 猿かはゝたち峠なとハ四十八曲り
 とかや九折重りて雲路にた
 とる心地せらる歩行より行もの
 さへ眼くるめきたましゐしほみて
 足定まらさりけるにかのつれ
 たる奴僕いともおそるゝけしき
 見えす馬のうへにて只ねふりに
 ねふりて落ぬへき事あまたゝひ
 なりけるを跡より見あけてあやう
 き事かきりなし仏の御こゝろに
 衆生のうき世を見給ふもかゝる事
 にや
 三
 と無常迅束のいそかはしさも
 我身にかへり見られてあはの鳴
 戸は波風もなかりけり
 夜ハ草の枕を求て昼のうち思ひ
 まうけたるけしきむすひ捨たる発句
 なと矢立取出て灯の下にめをとち
 頭たゝきてうめき伏せはかの道心
 の坊旅懐の心うくて物おもひする
 にやと[我を(取り消し線)]推量て我を慰んと
 すわかき時拝かみめくりたる地
 あみたのたふとき数をつくし
 をのかあやしとおもひし事共
 はなしつゝくるそ風情のさはり
 とハなりて何を云出る事もせす[ける(取り消し線)]とてもまきれたる月
 影のかへの破れより木の間かくれに
 さし入て引板の音しかおふ声
 所々にきこへける誠にかなしき秋
 の心爰に尽せり
 四
 いてや月のあるしに酒振まはん
 といへはさかつき持出たりよのつね
 に一めくりもおほきくしてふつゝか
 なる蒔繪をしたり都の人ハかゝる
 ものハ[手にもふれす(取り消し線)]風情なし
 とて手にもふれさりけるに
 おもひもかけぬ興に入て
 碗玉壺の心ちせらるも所からなり (=王+靑)
 あの[月の(取り消し線)]中に蒔絵[書たし/宿の月]
 桟やいのちをからむつたかつら
 桟や先おもひいつ馬むかへ
 霧晴て桟ハめもふさかれす 越人
 さらしなや三よさの[月見/雲もなし] 同
 姨捨山
 俤や姥ひとりなく月の友
 いさよひもまたさらしなの郡哉
 ひよろ/\と尚[こけて(見消チ)]露けしやをみなへし
 [よにおりし人にとらせん[木曾の/とち](取り消し線)]
 木曾のとちうきよの人のみやけ哉
 身にしみて大根からし秋の風
 善光寺
 月影や四門四宗も只一
 [秋風や石吹颪すあさま山(取り消し線)]
  落
 [吹颪あさまは[石の/野分哉](取り消し線)]
 吹とはす[落す(取り消し線)]
 石ハ[を(見消チ)]あさまの野分哉
        はせを
 
  右さらしなの紀行一軸
  芭蕉翁真筆無紛候
  尤下書二而一入おもしろく候
             已上
   庚子の春二月 木翁尚白誌