原本の画像を見る
無名庵之記并桃青由緒
一 芭蕉翁桃青先生は此国の産にして
松尾氏[俗名松尾甚七と号し/藤堂新七郎殿ニ勤仕す]成しか探丸子の家
[古主藤堂/新七郎殿也]の仕官を退て後に身を潜はにて
洛の北村季吟老人により誹諧をたのしみ
宗房と呼るゝ事年久し寛文十二[壬/子]の
春東武に下り名を桃青とす其住居初ハ
原本の画像を見る
小田原町後深川也此軒に芭蕉を植て芭
蕉庵と号す是より芭蕉の翁とも人翫し
侍る也小田原町の比にや世上誹諧いやし
く乱れて名を檀林風と云あへり此
時も先生は人の先達し時の人感る句余
多あり其季旧里を訪ふとて延宝四[丙/辰]の
夏たひ立て六月廿日頃此里に入て親族旧
友の悦に止り暫時して京にも立越へ又立
戻り文月二日に武江に帰らる世の風藻し
たひに荒はて弥さかん也先生深く是をな
けきより/\工夫の枕にふし終に正風実
体の眼を明けりされとも人其実を見しら
す且悔み且恨む其時より遁世して山
野を家としたひより旅に行衛を定めす
原本の画像を見る
中にも芳野の花須磨明石のほとゝきすにうか
れ出られし頃蒼海の水心に澄とや口を
すゝきまつ魚鳥をたちて松嶋象潟のた
ひ思ひ立るより深川の庵をも住すて乾
坤無住の時至る明石は元禄元[戊/辰]松嶋
は同しく二[己/巳]のとしに、年移りにしたかい
知らぬ国もなく今ハ風雅を学ひ人をしたひ
□改る筋の詠草ハ次韻集といふより
はしまり冬の月猿蓑炭俵後さるみ
のなと云あり是年々自然の
□化を
見するものか延宝の後ハ文通のみに給て
また貞享元[甲/子]のとし此国に渡り夫ゟ
行脚のをり/\爰に笠を脱き杖を休
め赤坂兄なる人のもと藪陰に草庵を結
原本の画像を見る
ひみつから無名庵と号し風雲のちからを
付られて門人多し
今宵誰よし野ゝ月も十六里 翁
移徙名月也門人集りよりて各句あり
其心(コヽロ)に添ふの輩昼夜につとひ花のもとの
たゝすまひなとゝ語りあへりしに元禄七
[甲/戌]の秋難波へ行とて出られしハ此境の
別れおさめて其間十とせ余り言捨散
し給ふ物みな家々に残りて終に古
郷の記念とはなりし彼庵
□□し輩
多く古人となり待人とてもなかりしかは
すへは壁をち雨もりて蘭菊草におされ
しをなけき蓑虫庵土芳をはしめ法印
東耕高門の人々議して愛宕山大福寺
原本の画像を見る
の東の林にうつし春は古池に蛙のとひ込
音の無造作なるすかたをしたひ秋は野辺
の苅萱に日のあか/\したるを見てむかし
北の海の磯つたひ残暑絶兼られしを
目下り思ひうつせしか夫さへいつしか
霜雪の下葉とおちふれけれハ年月
□追ふるをおとれたゝみ置れし庵を
宝暦四[甲/戌]の春東耕後の法印了忍
しきりの心出来て二東軒几右は先師土
芳の風詠なれハとて附属せ
□れし
か常なる所てハまた悔あるへしと其爰
評する中に万歳館公[藤堂采女殿/御隠居長門殿也]ともに此
道の好士にましませは国都の名物其まゝ
おくもにくむ所にやとにへなくも御別
原本の画像を見る
業赤坂六々庵の地をさきて爰にうつし再
形庵と号し地を給まひぬ土芳門人の
連中忝悦ひ修補にこゝさしを尽せり
庵号彼円位上人の[西行の/事也]名に似たるもお
かしく是は只ふたたびかたちつくると
の事ならんかし今年滅後六十一年必
□成結縁にてかゝる時節に逢ぬらんと
此道の栄花を悦ふ其庵の具は有しまゝ
にたてゝ折たる柱七本ハ新に修補し凡
一丁斗竹林を過てあけ簀戸を構へまた
南にひめ垣を隔て愛染院と云へる僧坊
に翁の古郷塚有り是即粟津の原の葬
埋と一物二也とうつゝのやうに覚へたり
しかるに 万歳館公身まかり給ひて後
原本の画像を見る
宝暦十三[癸/未]年当り五峯公[采女殿/御事也]の御内意
により東廿間余り東出といふ所に地を求
め彼庵を引て几右か遺跡霞覧鎰をつか
さとり隣松軒漁弓風友の先達となり
てます/\芳門のより所とす蕉翁世を
辞し給ふて人生稀なる年数に及ぬれは
なを是を祝し月次連中三哥仙を吟し
四季の句を双て一冊として冬の庵と呼ふ
南には侘ける民屋軒を双へ此面彼面の道を
ひらき東面樹木森々として烏雀枝に
囀り北は千家山郭を見渡し風雲朝暮
の往来に眠をさまし彩霞峯を巻て
呉服川あたりに近し或は五雲道を埋て
国府の湊も遙に詠やり松陰杦のむら
原本の画像を見る
立に頓阿法師の十楽庵地国分寺境の旧
跡も見へて一国一庵の影地をなせり幸成哉
爰に一株の芭蕉あり二株に分て軒近く
植けるに其葉日々に栄へ几琴をかくし
つゝ琵琶の袋に縫つへし
芭蕉葉を柱にかけん庵の月
此句は深川の軒に五もとを植られし
時の古翁の吟なりまた宝永五[戊子]の年
の卯月十八日蓑虫庵土芳の催し置れし
たる月次の誹会年月の怠りなく夫ゟ
巳と亥のとし/\を月次の年賀として
集会す今爰に六十年往昔古今集撰
られしは延喜五年卯月十八日はからさる
に日月のあへるも風雅の冥加とをそれみ
原本の画像を見る
祝し侍りぬかく来由を粗筆に記し侍
れはまさきのかつらなかくつたわり鳥
の跡久しく大空の月を見るかことく
に風人代り/\出て此道を此庵のとこし
なへに絶さらん事をこひねかふのみ
さゝれ石の苔むすまてやしくれ月
明和四丁亥初冬 随之軒梨風
謹書