芭蕉五庵図録

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芭蕉五翁庵図録
    五庵由来概略
夫れ五庵と号くる者は翁の永く住居と定められ
し宅に非す一時寄宿せし処也翁は上野赤坂町
に生れ父兄に養育せられ長して国主藤堂候
の大夫藤堂新七郎良晴の家臣となりしより丸
之内の邸中に居住し遁世漫遊の後に至りしは/\
古郷へ帰省の時或は阿兄の邸中に住し或は門弟子
の別業を借りて寓せし故処々に居住の跡残れり
翁の寓居し且つ号を附せられし其著しきものを
五庵と名けし也多くの星霜を歴て陵谷
かわりうつりやうは皆虚しく成あり或は持主の
 

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好により其結構を改めしあり旧時の庵状を失はす今
に存するは唯蓑虫庵のみ然れとも他の庵も其土
地皆分明なれは俳道に志篤き人々千里を遠しと
せずして来り五庵を巡訪せり蕉翁の遺徳千歳
不朽嗚呼盛哉
 
  無名庵
此庵今は農人町字東出にあれとも元は赤坂町翁の兄
半左衛門の邸内にありしなり無名庵の記に曰く
 貞享元年甲子の年芭蕉翁故郷に帰り赤坂町
の兄の家の藪陰に菴を結ひ自ら無名庵と号
けて行脚の折々こゝに笠を脱き杖を休めしと也
 翁身まかりしより雨もり壁落ちて垣根の蘭菊
なとおとろにおされしをなけき門人土芳東軒の
輩愛宕大福寺の東林に移しけるそれさへ
いつしか霜雪の下葉とおちふれしを宝歴四
年萬歳館の主人再ひ赤阪町の別荘六々庵
の地をさきてこゝに移して再形庵と号く同十
 

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三年五峯丈これを東出の別荘にうつせり
其後持主は代れとも脩繕を加へて弘化のころまては古ひ
たる庵ありて翁の手蹟とて柱に発句の書たるか剥
落して見え難きまゝ残り在しもその時の持主古きに
堪えかね更に建かへたれば句の有し柱は今何れに在るや
しる者なし然れとも土地と庵とは元の如く東出に現
存せり柱に翁のかきし句は
 冬籠又よりそはむ此はしら
 
  瓢竹庵
瓢竹庵は上野東日南町にあり翁門人藤堂脩理の臣岡本
苔蘇か家の別亭なり此家表は町並ひなれとも側に路
次門あり其奥に小亭有りこれ翁の寓居せし処なり庭除
は清潔にして唯桜の大樹あり翁の遺愛とて岡本氏代々
能く此桜を保護せり故花盛のころは人々つとひて見
に来れり安政の末つかた福井氏へ譲りし後幾年
ならすして桜は斧斤の災にかゝれり此時樹の囲り二枹
許もあり名高き木のむなしく薪柴と成を惜み少
しつゝ買取て珍重する人ありて其材処々に残れり
其中にも東町の人筒井小市郎は早く此材を買得て
自ら翁の像を彫刻せり小庵も古ひてさゝへ難きとて
 

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いつしか取払へり近頃に至りては表の建家も残り無く毀
ち去りたゝ麦菜のみ生ひ秀てたり当時翁の桜に対
して詠せられし句は人々膾炙する処なり翁の書し
手蹟は上野某氏の家に存せり
 瓢竹庵に膝をいれ旅の思ひいと
  安かりけれは
  花を宿にはしめ終や廿日ほと
  瓢竹庵より旅立けるに
  此ほとは花に礼いふ別れかな
 
 東麓庵 西麓庵
此両庵は一邸の中にあり邸は上野田端町の東南隅にて
方一丁余り東にあるを東麓庵となし西にあるを西麓
庵とせしなり此庵の廃るや已に久し元上野町の旧
家窪田六大夫の別業なり当時主人の俳名を猿雖といふ
翁の門人にして其名諸書に著はれる人なり翁此庵
に寓せし時主人よりの頼みにて翁の附せられし名也
翁の書き贈られし書翰中に庵名の入たるもの
窪田氏に存在せり又西麓庵にて翁土芳主人猿
雖三名俳諧の会ありて表六句を書たるを窪田氏
代々珍蔵せしか近来は上野西町人筒井氏の所有とな
なる左の如し
 

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八月九日猿雖亭
  稲妻に額かゝるゝ戸口かな  土芳
  畠境にのひる唐黍      猿雖
  清水出る溝の小草に秋立て  翁
  わすれ比なる酔ほのか也   芳
  又起てあり明細き屋根の霜  雖
  松風こもる山の中段     翁
前の四句は土芳の筆にて後の二句は翁の筆蹟
なり又土芳の記文あり録す
猿雖が別業に東麓庵西麓庵といふもの二所あり
此号は亡師の附せられし跡なり方一丁はかりにして
なせる物すきもなく安楽の地なり巽隅のおのすから
 
茂々これに添ふて池ひとつ蓮杜若河骨なと折々時
を見す鯉に煎餅をくはせて納涼すその外大か
かたは 畑なり四時作物を取り客と共に楽しむ
畑中に東西隻て桜二本名を知る者なし形は名
花なり東はやく稍過るころ西又けしき立春永く
人を喜はす
次の木へさかりわたして散さくら
 元禄は亥とし     土芳
此邸地は故あつて上野の士族佐々木氏へ譲り
やうは尽く建かへしも今に佐々木氏の別業たり
 

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  蓑虫庵
此庵は上野西日南町の南端にして市街中もつとも
僻幽の地なれとも東南の方はほからかにひらけ
遠きは連峰の嶙峋たるを望み近きは庭除の池
沼樹木に対し四時の風光にとみ騒客韻士の栖
遅するにたへたる処なり昔時蕉翁の弟子服部土芳の
所有にして翁時々此庵中に留寓せり翁江戸に在
し時なにか思ふところありて自ら達磨面壁の図
をその上に
  蓑虫の音を聞にこよ草の庵
の句を題し帰省のとき此図を懐にして庵
中に来り土芳にあたへらる土芳喜ひ大かたならず
 

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たゝちに蓑虫の二字を以て庵号となさむと請ふ
翁これをうなつく蓑虫庵の号こゝに始まる句は
庵中幽邃の景光と翁の遺徳の深きとに当ること
を称誉せさるものなし翁猶しば/\この庵中に
寓  宿して吟咏あり
  今宵たれ吉野の月も十六里
等の句も皆此庵中の作なり翁の世を去し後土芳久し
く居住せしに四方の人々蓑虫の句の絶妙なるを感じ
或は訪ひ来り或は遠く吟草を寄る者頗る多し
享保十五年土芳物故して後四拾余年霜雪を
歴風雨を凌き垣籬卧れ檐廂破れしを
桐雨といへる人翁の遺跡のすたれるを惜み自ら
 
此庵に居住して卧れしを起し破れしを繕ひ旧貫に復
したり安永三申年桐雨自ら蓑虫庵再興の
記文を作れり文長ければ略す文中句あり
 春雨にむかしの色や庭の草
桐雨の此庵を繕ひこの庵を楽み蕉翁在
世のむかしをしのはれしは此句中に就て
思ひ見る可きなり此後又幾何か歳月を歴て
雨漏りて柱榱も朽ち風ふれて屏籬もた
をれしもこれを脩むる人なかりしを文化の頃服部
猪来此庵を購ひ得て又おほひに脩繕を加へ
たれば此庵を見る人々蕉翁土芳の昔の様も
かくありしならむと称せり猪来は最も俳道に
 

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志篤き人にて啻破壊の脩繕のみならず元
禄の昔より当時に至るまての此庵に由緒ある翁
以下数十人の手蹟を庵中蓄蔵し訪ひ来る人
に示し翁を慕ふ情を慰め又来者の筆蹟を
乞ひ懐紙短冊等をあまた集めて紀念とせり
又蓑虫庵小集等の著述あり猪来死せし後所
持の主かはり町井氏辻本氏等を経て今の中
村氏の所有となれり中村氏は風流好事の人な
れはかゝる名高き旧跡のそこなひ汚るゝを慮
はかり歳々脩繕をくはへ日々掃除を尽し
庵中庭砌とも悉く清潔となれり抑も此庵や
何れの年に建築せしか慥かならずと雖も天和
 
貞享の際ならむ元禄七年翁の世を辞せし後
土芳の居住して保護せしこと三十七年のひさしき
と其のち桐雨猪来の有志者ありて廃れたる
を興し壊れたるを補ひ再び三ひ旧貫に復せ
しと又中村氏の手に落てより殊更に清潔を尽
せしとにより二百十有余年の霜雪を経過して
依然として存在せり今日に至りて市街中にある
多くの遺跡に於て一も全きものあるなし唯此庵
の若きしは/\善き住主に値遇しそのうへ
災害にかゝらず変換にあはさるものまことに
多幸を得しといふへきなり