長月庵若翁稿本

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去年の秋芭蕉の蔭たのむかたつふりの
庵を失ひしより菊の井ふるき
九十庵に寄居中のやとりもはや
青扇ちるひと夜の年を守りてなを
青き扇の春待とあるしと共に
つふやきふして初日は聖廟の
傍に拝みぬこゝもと梅の花の春と
神徳を感せしもきさらぬ末の五
日は九百年の御忌にわたらせ給ひて
万人其神慮を謝し奉るわれは
神の梅千とせを松の隣哉と拙き
ことの葉奉納してそこらの神所
拝み廻れはそそろに旅こゝろうかひしかは
柳はみとり花はくれなゐあらおもしろの
春のけしきやと憲清入道の詞にいよ/\
そゝのかされて先日伊賀の国へと志し
やよひも末の二日つかの地のみを立出るに
うらやましき春の山春のさと何よりこの
はなむけを始として浄蓬社友も
別袂の情ねもころなり
 

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  かけろふのたつや我先我うしろ
まほろしの巷に出てはかなきうき世を
観しつ/\天満橋を杖の牽はしめ
として重城の留場にかゝり漸く
坐こゝろさたまりぬ玉造玉津橋
深江の里は菊の花の匂ひ深く高井田
の茶店は軒の藤なみ咲乱せり
  藤の色人のこゝろを朧にす
松原の宿にまつ人なく箱堂の里に昼寝
せん辻堂もみへねは直にくらかりの麓に
至る此所に祖翁菊の香塚あり豊浦の
耒耜てふものゝ建て奉し拝して過ぬ
  むかし誰植し石火のきくの苗
九折を労るゝ一路を求め絶頂に至れは
山嵐岫雲の瘴気膚を侵して汗つめ
たしもとより酒このまさる身なれは木の芽
田楽の匂ひもわひしからすそこのちいさき
茶店に茶を乞ひわりこひらきてわつかに
飢渇を潤せりしはらく駅路のさまを見るに
旅客のゆきゝは燕よりいそかしくよね等の
さへつるは雀よりもかまひすし酔てぬる
 
あれはふりきつてたつありぬるものは遅き
日に順ふかことく立ものは永き日に逆らふ
に似たり共に又まほろしの巷なる
かなと観し捨てけはしき坂を下る
菅原やふし見の里㐂光寺の聖廟にぬか
つく此所は菅公誕生の地といへれは
  有かたき梅の実拝む弥生かな
招提寺の若葉は花の露残りてむかし我
翁の御眼の雫拭ははやと申されつる
事をおもひ出して拝するに感深し日も
生駒山にかたふくころ猿沢のほとりに
こよひのやとりを求む
廿三日早天に支度して春日のみやしろに
詣す杉深きもゆる松に過ころのさくら
一木ありおもひかけぬ今朝の大露にし
花の唇氷にとちられたるかことし
  ちらんとす花を封してわかれ霜
寧楽の都のふるき春けしきに心残り
はへれともたひ/\拝み廻りたる後
なれはうち捨て伊賀路へ分入に
 

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梅谷といふ里に出たり
ちらんとすの次に書入
三笠山のふもとにて
  あはれ鹿誰か哥の種孕みしそ
   梅花の吟
  ちり際の花しとろなり鴬菜
是より加茂郷とかやおほつかなき山野
村巷農夫牧童に道を問てみかの原
わきて流るゝいつみ川を渡り笠置
山の麓に至る