寛永慶安古文書 伊賀国と近江国境界の件(甲賀郡和田・五反田村書状)

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乍恐言上
一伊賀国上柘植村と甲賀郡和田村
 五反田村と山々出入之儀北ハぞろ/\
 たうげから川をかきり南面の山之儀
 上柘植村と和田五反田村と往古ゟ
 立合に仕来候処に去天正元年七月ニ
 右之山へたて間敷由上柘植村より申ニ
 付而七月より十二月迄取あひを仕候処ニ
 伊賀国奉行甲賀郡奉行衆立合
 候て先規のことく被仰付相済申候右
 異見の判状為御披見たゝ今上申候
 彼方ニも如此之判状可有御座候右
 之旨ニまかセ 信長様同 大閤様
 当 将軍様の御代に至迄異儀
 なく彼山へ上柘植村と此方両村と立
 合に仕候儀一定ニ御座候然を去々年ゟ
 右之山へたてましき由申候沙汰之限不謂
 申事ニ御座候右之山へ罷立草柴を取
 田地の中ないに仕耕作いたし候彼山へ
 立不申候へハ此方百性堪忍不罷成両村
 たいてん仕候間能々被聞召分とかく往
 古ゟ如有来被仰付可被下候事
一立合の山手としてかじけ升壱石六斗
 ツゝ和田五反田より上柘植村へ往古ゟ
 出し来り申ニ付而今以其分ニ御座候然ハ
 右之山手を持せ遣候人足に無正体ほと
 酒をのまセ書物に判を仕候へと申候処ニ
 彼者申様ニ何事をも不存候間仕間敷と
 申候へハ大勢よりあひ手を取筆をもたセ
 無理に判つかまつらセ候よし申候左様ニ仕
 候て正ニ立候ハん哉沙汰之限候承候へハ
 和田五反田のおとな百性の名を書立
 上柘植村之者共ぼう判を仕候由風
 聞候自然如是ニ候ハヽ此一儀ハぼうしよざい
 くわに被仰付之可被下候事
一ぞろ/\たうげをかきり北面の山之儀ハ
 甲賀領にて和田五反田の山にて御坐候 
 大閤様御代ニ池田伊与(ママ)殿御上使と
 して伊賀国山手を御ふミ被成候然
 時も甲賀領たるに付而右之山へ少も被
 仰下無御座一粒一銭山手を出し不申候
 伊賀領ニおゐてハ何とて山手を御ふミ
 被成間敷候哉以爰甲賀領無紛段
 被聞召分可被下候此山ニ付而上柘植
 村之者共往古ゟ一句一言の申分御座
 なく候唯今新儀非分をたくミ出し北
 面の山之儀何かと申むさふり候ほしい
 まゝの申事不謂儀候て是又往古ゟ
 如有来被仰付可被下候幷伊賀之内
 くらぶ村の百性昔ゟ此方の山へ立来
 候間今以無異儀たゝセ申候事
以上
         甲賀郡
           和田村
           五反田村
午ノ    七月九日       
御奉行衆様