財良寺跡

財良寺跡
テーマ壬申の乱と古代の伊賀
見どころ・解説 財良寺跡は、『東大寺要録』に「伊賀国財良寺 右天武天皇御願」と記され東大寺末寺という由緒をもち、鎌倉時代には東大寺戒壇院系の律宗寺院でした。寺跡は、旧丸山中学校西側の東西約160m、南北約100mの範囲の畑地が寺域と考えられています。明治期の「才良村全図」を見ると、この付近には「慶言院」「北ノ坊」「奥坊」「大門」などの小字名が記され、「慶言院」「ケゴイン」は、華厳宗大本山東大寺との関係を思わせます。出土遺物は飛鳥・奈良時代の軒瓦や鎌倉時代の軒瓦がありますが、なかでも飛鳥時代の複弁八葉蓮華文軒丸瓦は、天武天皇と持統天皇の皇子草壁皇子を偲んで建立された奈良県桜井市の粟原寺出土例と同笵(同じ型)で、その関係性が注目されます。
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上野エリア 財良寺跡
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