旧崇広堂

旧崇広堂
テーマ上野城と城下町
見どころ・解説 文政4年(1821)に藤堂藩の10代藩主藤堂高兌によって開設された藩校で、武家屋敷地であった場所を区画整理し、敷地の東側に武場、西側に文場を設けました。武場は近代に学校用地となったことで建物が失われましたが、文場は兵学寮などの一部施設を除き、藩校発足当初から存在した講堂・有恒寮などの施設が今に伝わり、一般に公開されています。
 文場での教育は講堂での一斉講義を主体とし、儒学の教典である四書五経などが講じられていたと考えられます。有恒寮は、藩士の子弟を対象とする句読(素読)や習書の教場で、四書五経のほか『春秋左氏伝』などの史書を教材としていたと思われます。
 なお、講堂の前に広がる勾玉池が特徴的な庭園は、中土塀などとともに明治期に整備されたもので、江戸期の講堂周辺は広く開けていたと考えられます。
所在地
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旧崇広堂 所在地
上野エリア 旧崇広堂
現況写真・図面
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