1.全景
2.水門部分 調査区全景
3.水門部分 第二暗渠
4.水門部分土塁断面土層
5.水門部分 土塁木柱断面
6.土塁正面
7.土塁断面
飯塚市鹿毛馬に所在し、旧筑前国と旧豊前国の境として南北に延びる金国山地北端部の西側、花崗岩から成る丘陵に立地している。遺跡の西沿いには遠賀川水系の鹿毛馬川が南から北へ流れており、この川により浸食された谷部の上流へ進むと旧豊前国と旧筑前国を結ぶ烏尾峠に至る。
神籠石とは概ね7世紀代に築造された古代の山城で、その分布が北部九州から瀬戸内海沿岸部に限られていることから当時の東アジアにおける対外的緊張関係を背景として築造されたものとして捉えられている。鹿毛馬神籠石の最高所は東端の標高約76mで、最も低い位置は遺跡西側の水門部分で標高約16mであり、比高差は約60mとなる。外郭線は東側に列石未確認部分があるが約1,980mと復原推定され、大きな一つの谷を城内に取り込んだ典型的な包谷式山城である。
この遺跡の調査は、昭和10年代における地元青年団による列石の検出作業に始まる。この検出作業によって、約2kmにわたる列石が一部を除きほぼ完存していることが判明し、その成果を以って昭和19年に国指定史跡になっている。その後、昭和28年に水門部の調査が行われ、さらに昭和58・62年度に福岡県教育委員会、平成6~9・16・17年度には旧頴田町教育委員会が発掘調査を実施している。調査の成果は、以下のとおりにまとめられる。
水門部分は西向きに開く谷に位置する。谷口を長さ約60m、幅9mの土塁で塞ぎ、土塁の下に排水のための暗渠が築造されている。土塁は基底部に列石と背後列石(谷奥部側)を連ね、この間に花崗岩バイラン土を用いた版築工法で構築されている。この土塁の列石全面において土塁築造の際に支柱として使用されたと考えられる直径30cmの柱と版築の堰板として使用されたと考えられる長さ約3.95m、幅0.25m、厚さ1.5cmの板材も確認されている。また、柱は列石前面ばかりでなく土塁中からも検出されており、この柱は前面の支柱に連結され版築の土圧で支柱が傾くことを防ぐためのものと考えられる。この土塁中の柱は列石に沿って約三㍍間隔で検出されている。土塁下の暗渠については、昭和28年に調査された第1暗渠以外に、もう一つの暗渠(第2暗渠)が北側に存在することが明らかとなった。
外郭部分の土塁については外側にだけ壁を持ち、内側は山の斜面に托す内托構造の土塁が外郭の概ね西側半分にのみ確認されている。この土塁は基底部に列石を置き、その上に版築による盛土によって造られている。土塁は75度の角度で内傾しながら立ち上がると復原される。また、列石全面に地山を削り出した幅約1mの犬走り状のテラスがあり、このテラスより土塁築造時の支柱の跡と考えられ直径約30~40cmの柱穴が約3m間隔で確認されている。
一方、外郭の東側最奥部分ついては列石や明確な土塁が認められず、犬走り状のテラスのみが確認されている。このテラスにおいて、土塁築造時の支柱跡とされる柱穴は検出されておらず、外郭の東側最奥部については土塁が築造されていなかったと考えられる。
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