金銅製帯金具(複製)
飯塚市西町に所在し、穂波川と嘉麻川の合流地点の西側の丘陵群中の勝盛山塊に立地する。勝盛山塊は龍王山から派生した丘陵の東端部にあたり、遠賀川の支流である建花寺川と潤野川に挟まれた標高約50m前後の低山性丘陵である。
大正10年、宅地造成中に発見され、福岡県から発見物に関する報告が宮内庁へ提出された。遺物は重要資料として、一括して東京帝室博物館(現東京国立博物館)の収蔵品となっている。
埋葬主体部については図面が残されていないため、手がかりとなるのは福岡県から宮内庁に提出された報告である。この記述内容から、丘陵斜面の中ほどに立地していたことが分かり、内部が袋状を呈する点などから横穴墓である可能性が高いと考えられている。
出土遺物は金銅製帯金具、ゴホウラ製貝輪、鉄鏃、不明鉄器、鉄刀、鉄鎌、鉄U字形鋤先、鉄斧、鉄鑿、鉄刀子、鉄地金銅製楕円形鏡板付轡、鉄地金銅製剣菱形杏葉、砥石である。これらの副葬品は他の横穴墓と比べ非常に豊富である。帯金具は葉文透彫の銙板に単圏の心葉形垂飾が組み合わさったものである。形態から朝鮮半島の新羅・伽耶地方から直接もたらされ、関連の深い物であることが明らかとなっている。これら副葬品の検討から築造時期は古墳時代中期末から後期前半と考えられている。
櫨山古墳の被葬者は特異な副葬品を有することから、有力首長墓である山の神古墳の被葬者を支えた渡来系の人物とも推定されている。
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