1.中世集石墓
2.中世集石墓 骨蔵器検出状況
飯塚市明星寺に所在する。明星寺跡が立地する龍王山の東斜面は山麓が長く続き、標高約100~200mの丘陵は河川浸食により谷が樹枝状に分布している。この谷に建花寺、蓮台寺、大日寺、明星寺、舎利蔵といった集落が形成されており、その地名が物語るように龍王山東麓には一大仏教文化が栄えていたと想定される。
明星寺については『筑前国続風土記』によると、寺の創建時期は不明であるが平安時代末期以前の創建とされ、元来は天台宗で比叡山の末寺であったとされる。その後、衰退していたところ、建久年間(1190~1199)に聖光上人により三層の塔が再建され再興されたとされる。当時は堂舎も多く、伽藍も立派な寺院であったことが分かる。ただし、往時の明星寺の状況を伝える資料は少なく、元享2年(1322)の紀年銘をもつ法橋琳朝石卒塔婆や明星池から見つかった滑石刻真言(福岡県指定有形文化財)が残るばかりである。
このような状況にあって、平成元年度に飯塚市教育委員会により実施された発掘調査は往時の明星寺を断片的に知りえる資料を与えてくれた。調査により13世紀後半頃から14世紀代に営まれた中世墓地が確認された。この中世墓地は集石墓49基から形成されるが、集石墓は丘の頂部を削平し平坦に整地した後、大きめの石を方形に並べて石囲い区画を設け、床面に小さい穴を掘って蔵骨器や火葬骨を埋納していた。蔵骨器の半数は中国製の輸入陶磁器で、その中の青磁水注は国内では数少ない優品である。中世墓が立地する場所は明星寺の中心部にあたり、優品である輸入陶磁器を蔵骨器としていることなどから、その被葬者達は明星寺の僧侶あるいは寺院関係者と推定される。鎌倉時代後期において明星寺にはかなりの数の僧侶がいたことが文献からも明らかとなっており、その一端を発掘調査により裏付けることができ、往時の明星寺の繁栄が偲ばれるものとなった。
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