482 大分廃寺跡

1.塔跡 調査状況(直上から)

1.塔跡 調査状況(直上から)

2.塔跡調査状況(東から)

2.塔跡調査状況(東から)

3.新羅系軒丸瓦

3.新羅系軒丸瓦

4.新羅系軒平瓦

4.新羅系軒平瓦


 飯塚市大分に所在する古代寺院跡で、穂波川の支流である大分川の左岸、三郡山地から東に向かって派生する標高約五二㍍の低い舌状台地上に立地する。この地は豊前地方から大宰府へ通じる官道沿いでもあり、ショウケ峠を越えれば博多方面へ抜けることもできる交通の要衝でもある。
 現在、地表に残る大分廃寺跡の遺構は、塔基壇と心礎、並びに礎石からなる塔跡部分のみである。そのため、塔跡と寺域範囲の確認のため、平成3年度から平成7年度にかけて旧筑穂町教育委員会が発掘調査を実施した。
 塔跡の調査では、心礎を含め13個の礎石が原位置を保ち、西側4個の礎石は崩れ落ちた状態で確認された。礎石には直径約60cmの柱座が削り出されており、柱間は四天柱・側柱とも礎石の柱座の心芯で2.35m、これにより建物の規模は梁行・桁行ともに7.05mの三重塔と復原される。心礎は二段の造出しを有し、心柱の刳込みから二本の排水溝を設ける非常に丁寧な造りのものである。塔基壇については、地業の掘り込みが確認され、この掘り込み地業の線から推定すると、基壇の一辺は約12.75mとされる。基壇の高さは、版築の始まるレベルと礎石上面の高低差から約1.2mと想定される。
 塔跡以外の調査では、残念ながら塔跡以外に堂宇を示す遺構は確認されなかった。しかし、寺域の西側を限る南北溝、中門の前面に位置すると推定される東西溝などが確認されたことにより、「法起寺式」あるいは「観世音寺式」といった伽藍配置が想定され、寺域(東西102m、南北94m)の規模が明らかとなった。
 塔跡と共に大分廃寺を特徴づけるのは、出土する華麗な文様を有する新羅系古瓦である。創建期の大分廃寺の瓦は、中房の周囲に蕊帯があり周縁に扁行忍冬唐草文をめぐらし顎面に珠文縁に囲まれた扁行忍冬唐草文を有する複弁八葉蓮華文軒丸瓦、発達した顎面に宝相華文を有する扁行唐草文軒平瓦の組合せを主体とした新羅系軒瓦であったと想定されている。これらと同型式の瓦が天台寺跡(田川市)、垂水廃寺(上毛町)、椿市廃寺(行橋市)といった豊前地域の古代寺院からも出土している。新羅系古瓦については、はやくから渡来系氏族が定着化したと考えられる豊前地域に分布の中心があるため、大分廃寺は豊前地域との強い関係を背景として創建されたと考えることが出来る。この新羅系古瓦と出土土器により、大分廃寺の創建時期については8世紀初頭頃と推定されている。
 昭和16年に塔跡のみ国指定史跡となり、現在は塔跡のみ整備されている。
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