飯塚市山口に所在する。飯塚市から筑紫野・太宰府方面へ至る山越えに米ノ山峠がある。米ノ山城跡はこの峠より東北東へ約1.5km、三郡山地を構成する竹の尾山(標高540m)から派生した「米ノ山(推定標高約440m)」という半独立峰の山頂に位置していた戦国期の城館である。城域の南側から東側の眼下には穂波川の支流である山口川が流れ、これに沿って飯塚方面から筑紫野・太宰府方面に抜ける道が通っている。
米ノ山城跡については、『筑前国続風土記』に「油須原村と穂波郡山口村にかゝれり。この城は高橋紹運の取出の城也。」とあることから、豊後大友氏配下で太宰府の宝満城・岩屋城主であった高橋鎮種(紹運)の出城であった。
昭和62年度に開発工事に伴い旧筑穂町教育委員会が発掘調査を実施した。調査時において、すでに城域の大半が消滅していたが井戸など確認されている。この井戸は深さ約9mの石組井戸で、その底は岩盤まで達しており、調査当時においても岩盤から水がしみ出ていたと記されている。現在、この井戸は飯塚市山口に所在する若八幡宮に移築復元されている。
平成23年度には城域を構成する遺構が唯一残る城域の西側の調査を飯塚市教育委員会が実施した。調査の結果、曲輪、土塁、堀切群が確認された。堀切は城館の主郭が所在する米ノ山と唯一尾根線で結ばれる竹の尾山との尾根の鞍部に、敵からの侵入の障害となるように3条掘り込まれていた。3条ある堀切の規模は、それぞれ幅9.8mで深さ2.9m、幅11.3mで深さ2.5m、幅5.5mで深さ1.6mである。
戦国期、嘉穂盆地南西部は秋月氏の勢力が強い地域であることから、米ノ山城は豊後大友氏勢力の穂波郡方面に対する最前線の戦略拠点であったと考えられる。
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