538 前遺跡

1.墓域全景(直上から)

1.墓域全景(直上から)

2.25号甕棺(成人棺)

2.25号甕棺(成人棺)


 飯塚市阿恵に所在し、穂波川の支流である山口川の左岸、標高約60mの扇状段丘上に立地する弥生時代の墓地である。
 平成8年度、農業基盤整備事業に伴い旧筑穂町教育委員会により発掘調査が実施された。調査により成人用甕棺墓3基、小児用甕棺墓21基、木棺墓14基、土壙墓55基、祭祀土壙13基で構成されている墓域が確認された。調査された墓域は東西約80m、南北約35m、調査区の南側は河川の氾濫により墓域の一部が浸食され削られている。墓域全体は東西に広がっているが、墓域の中央に約六㍍の幅で埋葬が行なわれていない空白部分が東北から西南に走っており、この部分を境に墓群を東群と西群に分けることが出来る。
 東群は成人用甕棺墓1基、小児用甕棺墓20基、木棺墓10基、土壙墓30基から構成されるのに対し、西群は成人用甕棺墓2基、小児用甕棺墓1基、木棺墓4基、土壙墓25基から構成される。両群を比較すると、西群は東群に比べ墓の密度が低く、小児用甕棺墓の数も少ない。墓域の構成にあたって何らかの規制があったと推定される。東群、西群とも成人用甕棺墓、木棺墓、土壙墓が列状に並ぶ列埋葬と呼ばれる墓地構成であるが、西群については祭祀土壙の分布状況や墓の列方向を考慮に入れると、2グループに区分できると考えられる。いずれも副葬品を有しておらず木棺墓や土壙墓の時期については明確にできないが、甕棺墓はすべて中期前半頃のものである。遺構の切り合い関係から、甕棺墓が木棺墓を切っているものもあるので、中期前半以前の木棺墓も存在すると考えられ、遺跡全体の出土遺物から考えると当墓域は中期初頭から中期前半頃にかけて営まれたものと推定される。
 成人用大型甕棺墓は東群から1基(25号甕棺墓)、西群から2基(17・19号甕棺墓)が確認されている。いずれも中期前半頃のもので、嘉穂地域における大型甕棺導入の初現として注目される。19・25号甕棺墓はいずれも接口式で、17号甕棺墓のみ単棺である。19号甕棺墓(上甕)の胎土に赤色粒子を含んでいることから、この甕棺については福岡平野を中心とする地域からの搬入品の可能性が高いと考えられている。これらの甕棺墓からはいずれも副葬品が確認されていないため、首長墓とは想定できず、被葬者は家父長的な者と推定される。
 また、副葬品を有していないこの墓地全体についても一般成員の共同墓地として捉えられている。
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