561 木下遺跡

1.調査区全景

1.調査区全景

2.23号竪穴住居跡

2.23号竪穴住居跡

3.23号竪穴住居跡 出土土器

3.23号竪穴住居跡 出土土器


 飯塚市長尾に所在し、穂波川右岸の標高40m前後の河岸段丘上に立地する。縄文時代後期から何度か途切れた時期があるものの古墳時代後期まで断続的に営まれた集落跡である。昭和60年度、農業基盤整備事業に伴い旧筑穂町教育委員会を主体としながら、福岡県教育委員会が発掘調査を実施した。
 調査により縄文時代後期から古墳時代後期までの竪穴住居跡が61棟確認された。その内容は、縄文時代後晩期の住居跡が2棟(いずれも平面楕円形プラン)、弥生時代中期の住居跡が3棟(いずれも平面円形プラン)、弥生時代終末~古墳時代後期のものは56棟(いずれも平面方形プラン)となる。
 27号住居跡は古墳時代中期後半頃に比定されるもので、一辺約9.7mと本遺跡において最大規模のものである。主柱穴は4本で、西壁中央にカマドを付設する。ただし、カマドについては残りが悪く、両袖は失われており、石製支脚と焼土が確認されたのみであるが、本地域におけるカマド採用の上限を示す貴重な資料の一つとされる。
 また、本地域におけるカマド採用の上限を示すものとして、27号住居跡と同時期か時期的にやや古相を呈するものとして23号住居跡が挙げられる。一辺7.8mとやや大型の住居で、主柱穴は4本、東壁中央に屋内土坑を有している。この屋内土坑の南側住居床面より土師器が単独もしくは二~三個体が重ねて整然と置かれた状態で確認された。祭祀遺物と考え難く、住居内での日常的な器物配置を示す可能性も考えられ注目される。
 また、本遺跡からは、韓半島より日本に舶載されたと考えられる陶質土器と呼ばれるものが数点出土している。これら陶質土器の出土から本遺跡を営んでいた人々が、韓半島と何らかの関係を有していたことが想定され、本地域の古墳時代の様相を捉える上でも本遺跡は重要なものであると考えられる。
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