寛文九己酉七月十七日 国分村字谷ノ口ヘ脇屋義助公碑石ヲ再建ス
延宝七己未年改 分限帳(略記三万五千石)(此時支配ハ米四万石也)、
五月七日 定メラル、江戸馬飼料四月ゟ極月迄壬月共二百九十五日、
同己卯年六月十四日 定郷公幕命ニヨリ西丸大手御門番ヲ被ムラル、
宝暦十庚辰正月九日 正徳二年以前より之法度のあらましを概括して、
安永元年二月二十九日晦日 江戸大火ニ付、西丸大手御門番ニ被入
寛政四子年 御年貢米取締方者勿論、米拵へ方に付厳重被仰出、其概略
享和二年二月廿三日ゟ三日間 古国分村綱敷天満宮御年祭有之候ニ付、
文化十二亥三月廿五日 御料八ケ村備中笠岡代官所代官大原四郎右衛門殿ノ所
文政十二丑年十二月十二日 国分村新田堂庵(脇義助公廟所附也)焼失、
嘉永七寅正月 代官所触ニ曰ク(秤改役人入込ノ事)(本文略巻四参照)