略図をとる。スケッチをする。といったことは、その状態を明確にさせ、その特徴、要点など簡潔な表現が出来ることが特徴である。
観えたものの簡明な表現、生動した写生というものは、心眼に映じたもののよい表現である。
時間がなければ、たとえ数本の線だけでもいいからかくことが大切、理解したものを簡略な図表現するのもいい。
これは写真にとって置きたいというものを自分などは「写真物(もの)」など呼ぶが、写真は現況の活写などにまことによく、その時には気がつかなかったものが写っているなど思わぬ収穫のある場合もある。また写真を撮るために、故意に構成される場合があり、誇張があり、カメラアングルによる強調もあるから、うっかり市販の写真や絵葉書を信用できないことが多い。修正を加えられたため、ろくに花の咲いていない桜が満開にばけたりするから新聞写真など油断が出来ない。
自分で写した時、なるべく詳しい環境状況の記載、年月日、時刻、天候、露出条件、その写真のねらい、などの記載を怠らぬようにする。この記載があってこそ写真が生きる。いろいろな報告文に、撮影年月日もかいてない写真が入っていることが多いが、それほどにこれらの大切なことが閑却されることが分かる。
カメラは、三十五ミリのもの、六六判などが殊に野外の速写に都合よく、中判(キャビネ)は複写や、精密撮影によいが、大がかりになるので、これは多くは専門家ということになる。
ことわりなしに撮して小言を言われることもあるから、ことに民家などの時には、よく目的を話して了解してもらう。村の人など撮させてもらって、「出来たら送る」という約束をすると、「そういっても送って下さらない人が多い」などいう人があるが、これはまた不思議なことには、折角、苦心して送ってやっても、受け取ったとも何とも返事が来ないのが普通である。しかしそれを怒ってはいけない。写真を撮したのは、もともと、こちらの身勝手なのであるから……。
「山国の生活誌」五巻