食生活は人間の文化のもとであるが、その変化は著しい。
主食からおやつに至るまで、買い食いが一般的になり、自給の考え方は急速に失われつつある。
食料の保存は、食糧欠乏の危機に直面することの多かった庶民の知恵であり、それによりひと味違った味覚さえ生まれた。
大根干し 飯田市 昭和38年
山国信州では、漬物は冬季の大切な食べ物で、大根を数日間干して、塩漬けやぬか漬けにした。
大根漬はタクアン・オコーコなどと呼ばれている。
とうもろこし 箕輪町中曽根 昭和36年10月
とうもろこしを乾燥し貯蔵して冬の家畜の飼料とする。
ツルシンボ(吊し柿) 天龍村平岡 昭和31年11月
渋柿の皮をむいて軒先などで干すと、やがてコ(白い粉)が出て甘い干し柿となる。
ころ柿づくり
暖かい土地で川霧のかかるようなところが柿の産地。屋敷木として柿を植え、干し柿(くし柿・ころ柿)にして楽しみ食べるのが、ふるくからの習わしである。霜が何度か来て大気が冷えてきたころ、高い木にのぼって柿取りをし、大勢集まって柿むきをする。「柿むきごしんのうでござる熟柿(づくし)ょまいれよひぇびぇと」こんな柿むき歌がうたわれる。むいた柿をくしにさしたくし柿、一つ一つつるして乾したのはころ柿。程よく乾いたところでワラで包んで貯えると白く粉が吹いてうまくなる。ころ柿を干し並べた柿すだれは、まさに晩秋の風物詩である。
氷餅 伊那市大坊 昭和44年3月
つきたての餅を紙に包んで寒の水に浸し、水をきって凍らせ、凍み乾きに干しあげる。夏の頃、熱湯にといて食する。病人食にもよい。
そば打ち 辰野町(炉端会) 昭和43年12月
そば切りはご馳走で、祭りや祝儀などの人寄せの際には、そば打ちが大仕事だった。生そばを打つのには習練を要し、そば処では嫁入りの資格の一つといわれたほどである。
(炉端会=古老たちが集まって古い農法を再現し、残そうとした会)
豆どうふ 宮田村 昭和44年6月
田植の頃(5月の仕付け時)の季節の食べ物の一つに豆どうふがある。
生大豆をよく日に乾かして石臼で挽いて粉(生大豆粉)にし、これを水でこねて小さいオダンス一塊りにして煮物や味噌汁に入れる。
(オダンス=すいとんのこと)
こんにゃく玉 大鹿村大河原 昭和34年11月
下伊那地方などの山村に多い。こんにゃく玉からこんにゃくを自家でも作る。
ほうばもち 宮田村 昭和49年7月
農繁期の副食に多く作られる。うるち米の粉を練った皮にアズキあんを入れる。コクのある味である。
蒸すことによって葉が変色すると同時に風味も出る。
五平餅 伊那市手良 昭和40年2月
うるち米をこわめに炊き、つぶして大きい平ぐしへ手のひらの形ににぎり、火にあぶり、胡桃や山椒などを入れた味噌をぬり、さらにあぶって熱いうちに食べる。これを「杣(そま)ゴヘイ」というところもある。小さく握って串に二つか三つさして焼くのが一般になってきた。
鬼ぐるみ 宮田村 昭和44年9月
川べり、屋敷木としてあるほか、共有林に自生するくるみは禁木(きんぼく)として保護し、分け合った。鬼皮をとってつぶし、くるみあえ、くるみ餅などにした。
ゆず 天龍村平岡 昭和31年11月
ユズは標高600m以上の地には生育せず、現在天龍村には800本ある。ゆべしはユズから作られる。
ねかし味噌 宮田村 昭和44年4月
大豆を大きなみそ釜で時間をかけやわらかく煮、これを半切桶へあけ、藁(わら)の雪沓(ゆきぐつ)をはいて踏みつぶし、のし板の上にとって、握り飯大のみそ玉を作る。みそ玉を吊す方法を吊し味噌、莚(むしろ)の上などに並べて置く方法をわかし味噌という。
ゆべし 大鹿村 昭和51年4月
自生のユズの風味を生かした栄養保存食。薄く切って茶うけや酒のつまみにする。